外伝2:第六話「親不孝通りの外れ、琥珀色の凱旋」
二〇〇八年、秋。福岡・親不孝通りの喧騒を少し離れた、昭和の匂いを残す雑居ビルの二階。
宮脇は、真新しい脚立の上に立ち、店の入口に重厚な木製の看板を掲げていた。
『L'Arc』
天神から西新へ、そして十年の歳月を経て、再びこの因縁の地へと戻ってきた。
三十代後半を迎えた宮脇の横顔には、十九歳で初めてカウンターに立った時の危うい尖りは消え、琥珀色のウイスキーのように、深く、静かな自信が湛えられていた。
「……女のバーテンダーが、またこの親不孝通りでイキがって店を出すってか。物好きだな、宮脇」
ビルの廊下の向こうから、煙草の煙と共に、冷ややかな声が降ってきた。
声の主は、同じフロアで三十年近くオーセンティックバーを営む老バーテンダーの黒田だった。彼は、宮脇が西新から戻ってきたことを快く思っていない、この界隈の「古い男社会」の象徴のような存在だった。
「……お久しぶりです、黒田さん。……イキがっているわけではありませんよ。……ただ、この街に、私たちの『止まり木』が必要だと思っただけです」
「ふん。……この不景気の時代に、女子供の傷の舐め合いの場所か。……バーっていうのはな、男が孤独と向き合う、ストイックな場所なんだよ。……お前の出すような、甘っちょろいスープの匂いで、このフロアの空気を汚すな」
黒田は、吐き捨てるように言うと、自分の店へと引っ込んでいった。
理不尽な言葉。だが、宮脇は、かつてのように出刃包丁を突き立てることはしなかった。
西新の十年間で、彼女が学んだ最大の武器は、「怒り」ではなく、「圧倒的な技術」と「揺るがない日常」だったからだ。
「……宮脇さん、準備はできたよ! 西新の仲間たちも、もうすぐ天神に到着するって!」
店内にいた若い女性スタッフが、明るい声を上げた。
宮脇は脚立を降り、厨房へと向かった。
コンロの上には、天神の時代から、西新の時代を経て、一度も火を絶やすことなく繋いできた、あの寸胴鍋が鎮座している。
鶏ガラ、玉ねぎ、セロリ、そして西新の市場で仕入れた新鮮な香味野菜。
宮脇は、極小の火で、静かに、執念深くスープを煮込んでいった。
――パチ、パチ、と。
新しい厨房に、ガスコンロの燃える音が響く。
灰汁を掬い取る宮脇の手つきは、もはや職人のそれだった。
夜八時。
新生「ラルク」の扉が開き、西新から駆けつけた仲間たちが、次々とカウンターを埋めていった。
彼女たちは今や、社会の荒波を乗り越え、自分の足で立つ大人の女性たちだ。彼女たちの放つ、健康的で、自立したエネルギーが、親不孝通りの薄暗いビルの一角を、一瞬で温かな光で満たしていく。
「宮脇さん、おめでとう! 凱旋だね!」
「西新の店も良かったけど、やっぱり天神のラルクは、背筋が伸びる気がするわ!」
カウンターには、宮脇が仕込んだ、琥珀色のコンソメスープが並んだ。
その時、カウベルが鳴り、先ほどの老バーテンダー、黒田が、不機嫌そうな顔で立っていた。
「……おい。……表まで、スープの匂いが漂ってきて、うちの客が『いい匂いだ』って騒ぎやがる。……どんなインチキ調味料を使っているのか、確かめに来た」
黒田の言葉に、店内の空気が一瞬、張り詰めた。
だが、宮脇は微笑みながら、黒田をカウンターの特等席へと促した。
「……どうぞ、黒田さん。……インチキかどうか、ご自身の舌で確かめてください。……チャージの、特製ブイヨンです」
漆黒のマグカップに注がれた、無色透明に近い、けれど深い黄金色のスープ。
黒田は、疑わしげにカップを手に取り、一口、啜った。
――黒田の目が、見開かれた。
「……バカな。……この、圧倒的な雑味のなさはなんだ。……鶏の脂の甘みと、野菜の旨味、そして……この、奥深いコク。……お前、これを引くのに、どれだけの時間をかけた?」
「三日間です。……火を絶やさず、灰汁を掬い続けました。……黒田さん、バーは孤独な男の場所かもしれません。……でも、私たちは、このスープの温もりを分かち合うことで、明日を生きる力を得るのです」
黒田は、しばらく黙ってスープを見つめていたが、やがて、深く息を吐き、カップを置いた。
「……完敗だ、宮脇。……お前は、ただの『女のバーテンダー』じゃない。……本物の、職人だ」
黒田が、宮脇に向かって、初めて敬意を込めて頭を下げた。
西新で蓄えた「生活の力」が、天神の古い男社会の壁を、音を立てて崩した瞬間だった。
親不孝通りの外れ。
琥珀色の凯旋を果たしたラルクの窓には、かつてバブルの時代に見上げたネオンではなく、自分たちの手で勝ち取った、誇り高き灯りが輝いていた。
宮脇は、手帳の「親不孝通り・ラルク」の第一ページに、そっと書き加えた。
『第6段階:凱旋。……偏見を打ち破るのは、怒りではなく、圧倒的な手間暇と、温もりである。』
宮脇の「止まり木」としての人生が、今、親不孝通りの新しい歴史として、深く、静かに刻まれ始めた。




