外伝2:第五話「西新の風、そして天神への誓い」
二〇〇四年、冬。西新のマンションや商店街を抜けた先にあるラルクの二階は、温かなコンソメスープの香りと、穏やかな笑い声に包まれていた。
カウンターの端では、二十代前半の若い女性が、パカパカと折りたたみ式の携帯電話を開閉し、光る液晶画面を食い入るように見つめていた。
「……本当にあるんだ。ネットの掲示板に書いてあった通り、ここなら、女の子同士でいても、誰も変な目で見ない……」
彼女の呟きは、電波の海を漂流し、ようやくこの西新の「島」に辿り着いた安堵に満ちていた。
インターネットの黎明期。SNSなどという言葉はなく、孤独な女性たちは、匿名の個人ホームページやBBS(電子掲示板)の書き込みを頼りに、夜の街の「聖域」を探し求めていたのだ。
宮脇は、三十代半ばに差し掛かっていた。天神時代よりも少し角が取れ、黒いシャツの着こなしにも、大人のバーテンダーとしての余裕が漂っている。
彼女は、ガラケーを握りしめたまま緊張している若い女性の前に、静かに温かいブイヨンベースの野菜スープを置いた。
「……いらっしゃい。画面ばかり見ていたら、目が疲れるわよ。まずは、温かいものを一口啜って。電波の文字より、温かいスープの方が、よっぽどあなたを裏切らないわ」
若い女性はハッとして顔を上げ、宮脇の穏やかな微笑みを見て、小さく息を吐いた。
一口、スープを啜る。西新の市場で仕入れた新鮮な冬野菜の甘みと、宮脇が三日間かけて引いた琥珀色の出汁が、彼女の冷え切った胃の腑を温めていく。
「……おいしい。……私、ネットでずっと探してたんです。自分みたいな人間が、普通に生きていける場所を」
「ここにあるわ。……でもね、ここはネットの仮想空間じゃない。……朝になれば仕事に行き、スーパーで買い物をし、ゴミを出す。……そういう『生活のすぐ隣』にある、生身の場所よ。だから、安心していいの」
宮脇の言葉に、若い女性の瞳から、ぽろりと涙が零れ落ちた。
西新という街は、彼女たちに「夜の闇に隠れる必要はない、自分たちもこの街の生活者なのだ」という、絶対的な肯定感を与えていた。
閉店後、天神時代からの馴染みの客たちが、カウンターに残っていた。
彼女たちは今や、社会の第一線で働くキャリアウーマンや、自立した大人の女性へと成長していた。
「宮脇さん。西新の店も、すっかり手狭になってきたわね。……今夜も、掲示板を見てきたっていう若い子たちが、入れ替わり立ち替わりやってきたし」
馴染みの女性が、ウイスキーのグラスを揺らしながら言った。
宮脇は、グラスを磨く手を止め、窓の外を見つめた。西新の静かな夜空の向こう、ネオンが赤々と燃える天神の、あの「親不孝通り」の方角を。
「……ええ。西新で、私たちの足腰は十分に鍛えられたわ。……隠れる必要はない、私たちは普通の生活者だっていう自信も、彼女たちの中に根付いた。……だからこそ、私は、もう一度あの場所へ戻りたいのよ」
「天神へ? またあの、男たちの欲望が渦巻く場所に?」
宮脇は、磨き上げたグラスを光にかざし、静かに、けれど不退転の決意を込めて頷いた。
「……ええ。……コソコソ隠れるのではなく、堂々と、あの親不孝通りの外れに、私たちの旗を立てるのよ。……どんなに時代が荒れようとも、決して揺るがない、大人の女性たちのための『本当の止まり木』としてね」
西新の静かな夜風が、ラルクの窓を揺らした。
それは、隠遁の季節の終わりを告げ、再び戦場へと斬り込んでいく、琥珀色のリベンジ(凱旋)の号砲のようだった。
宮脇は、手帳の「西新ラルク」のページの最後に、力強い筆致で書き加えた。
『西新で蓄えた命の火を、再び天神の夜へ。……私たちは、もう二度と、夜の街の暴力に負けはしない。』
西新の夜空には、明日への道を照らすような、凛とした明けの明星が輝いていた。
宮脇の「止まり木」としての第三の人生が、今、天神への凱旋という、壮大な夢と共に動き始めようとしていた。




