外伝2:第四話「名前のない絆、あるいは西新への移転」
一九九八年、春。二十代も半ばを過ぎた宮脇は、天神の路地裏にある「ラルク」の店内で、段ボール箱の山に囲まれていた。
バブルが崩壊して久しい福岡の街は、大規模な再開発の波に飲まれていた。天神の地価は乱高下し、老マスターから引き継いだこの古いビルも、大型商業施設への建て替えのために立ち退きを余儀なくされたのだ。
「……ここも、今日で終わりね、マスター」
宮脇は、誰もいないカウンターの埃を、白い布巾でそっと拭った。
十九歳の時、このカウンターに立ってから六年。沙織との切ない別れがあり、ゴロツキ相手に出刃包丁を突き立てた夜があった。そして何より、誰にも言えない愛と孤独を抱えた女性たちが、この琥珀色の灯りを頼りに集うようになった。
カウベルが鳴り、段ボールの隙間を縫うようにして、三人の女性たちが入ってきた。かつて宮脇が包丁一本で守り抜いた、あの「最初の砦」のメンバーたちだ。
「宮脇さん、手伝いに来たよ! 重いものは私たちが運ぶから」
「そうそう、バーテンダーの細い腕を、段ボールなんかで痛めさせないわよ」
彼女たちは笑いながら、手際よく荷物をまとめ始めた。
当時はまだ、同性同士のパートナーシップなど、社会的には「存在しないもの」として扱われていた。アパートを借りるのも、病院に付き添うのも、すべてが「他人」という壁に阻まれる。
だからこそ、彼女たちはラルクという空間で、名前のない、けれど血縁よりも強固な「絆」を結び合っていた。
「……みんな、ありがとう。……でもね、新しい店は、中洲でも天神でもないのよ」
宮脇が、カウンターの上に一枚の地図を広げた。
赤ペンで丸がつけられているのは、天神から少し離れた、学生と生活者の街――「西新」だった。
「西新? どうして? あそこは、飲み屋街っていうより、商店街とか住宅地でしょ?」
女性の一人が、不思議そうに小首を傾げた。
宮脇は、微笑みながら、地図の上のその円を指でなぞった。
「……ええ。だからこそよ。……私たちは、夜の闇に隠れて、コソコソと生きるだけの存在じゃない。……朝になれば仕事に行き、スーパーで大根を買い、ぬか床をかき混ぜる。……そういう『普通の生活』のすぐ隣に、私たちの居場所を作りたかったのよ」
女性たちは、息を呑み、そして顔を見合わせて、深く頷いた。
夜のネオンに紛れるのではなく、生活の匂いのする街に、堂々と根を張る。それは、彼女たちにとって、社会に対する最も静かで、最も力強い「自立の宣言」だった。
引越しの日。
西新の商店街の喧騒を抜け、少し脇に入った建物の二階。
まだ何もない、コンクリート打ち放しの空間に、天神から運んできたあの「木製の重いカウンター」が据え付けられた。
宮脇は、窓を開け放ち、西新の春の風を店内に引き入れた。
下鉄の音、子供たちの笑い声、夕飯の支度をする匂い。
「……よし。ここを、私たちの新しい城にするわ」
宮脇は、すぐに厨房に入り、天神の時代から絶やすことなく繋いできた、あの琥珀色のコンソメスープの仕込みを始めた。
寸胴鍋に、鶏ガラと新鮮な野菜を入れ、極小の火にかける。
――パチ、パチ、と。
新しいキッチンに、ガスコンロの燃える音が響く。
灰汁を掬い取る宮脇の手つきは、二十代にして、すでに一国一城の主としての、揺るぎない風格を湛えていた。
夜になり、片付けが終わった店内に、天神からの仲間たちが集まってきた。
まだ看板も出ていない、段ボールが半分残った店内。けれど、カウンターの上には、宮脇が三日間かけて引いた、透き通ったコンソメスープの湯気が立ち上っている。
「……新しいラルクに。……そして、私たちの、これからの生活に」
宮脇がグラスを掲げた。
「「乾杯!!」」
西新の夜空には、天神のネオンにかき消されることのない、優しく、けれど力強い星が輝いていた。
月十万円、三万字、八万字……。
それらの数字が、西新という街の地殻変動の中で、やがて大野律子や愛という「新しい世代」を引き寄せる、巨大な磁場へと育っていく。
宮脇は、新しい手帳の第一ページに、そっと書き加えた。
『西新ラルク:第一章。……生活の隣に、琥珀色の止まり木を。』
宮脇の「止まり木」としての第二の人生が、今、西新の風と共に、静かに、そして誇り高く始まった。




