外伝2:第三話「暴力の雨、あるいは最初の砦」
一九九五年の秋。バブルの泡が完全に弾け、福岡の街には、どこか殺伐とした、冷え切った空気が漂っていた。
親不孝通りや中洲の夜を闊歩するのは、派手な業界人ではなく、金に困り、苛立ちを隠そうともしない質の悪い男たちだった。
深夜二時。ラルクのカウンターには、二人の若い女性が身を寄せ合っていた。
一人は、親から見合いを強要され、家を飛び出してきたばかりの泣きはらした目をした女性。もう一人は、その手をしっかりと握りしめる、短い髪のパートナー。
当時はまだ、同性同士の恋愛など「異常」の一言で片付けられ、誰にも言えない、暗闇の中の秘密だった。
「……大丈夫よ。ここにいれば、誰も手出しはできないわ」
宮脇は、二人の前に、温かいコンソメスープを静かに置いた。
その時、ラルクの重い木製の扉が、暴力的な音を立てて蹴り開けられた。
「おい、姉ちゃん! まだやってるだろ!」
入ってきたのは、酒の抜けていない、血走った目をした三人の男たちだった。見るからに街のゴロツキで、羽振りの悪さを暴力で埋め合わせようとする、当時の夜の街の象徴のような連中だ。
男たちの視線が、カウンターの端で肩を寄せる女性二人組に向かう。
「なんだぁ? 女同士でイチャイチャしやがって。気味の悪い。おい、俺たちの相手をしろよ」
下卑た笑い声が、ジャズの流れる店内に響く。怯える女性たち。
宮脇は、一歩も引かなかった。彼女は黒いシャツの袖を捲り上げ、男たちの前に立った。
「……あいにく、当店は会員制です。お引き取りください」
「あ? なんだと、女の分際で。店をめちゃくちゃにしてやろうか!」
先頭の男が、カウンターのグラスを叩き割ろうと手を伸ばした。
その瞬間、宮脇の右手が、カウンターの下から一本の「研ぎ澄まされた出刃包丁」を掴み出し、男の鼻先、わずか数センチの木目のテーブルに、無言で、けれど凄まじい力で突き立てた。
――ドンッ、と、重い音が店内に響き渡る。
「……ここは、私の店よ。私の客に、指一本でも触れてみなさい」
宮脇の目は、一滴の血も通っていないかのように冷たく、けれど奥底で、青い炎が燃え盛っていた。
かつて、愛した沙織を東京へ送り出し、孤独という名の灰汁を削ぎ落とし続けた女性の、絶対的な胆力。
男は、包丁の刃に反射する自分の醜い顔を見て、息を呑んだ。
女の腕力ではない。この女は、自分の「城」と「客」を守るためなら、本当に刺し違える覚悟がある。その狂気にも似た気迫に、男たちの酔いは一瞬で冷めた。
「……ちっ、イカれた女だ。行くぞ!」
捨て台詞を吐き、男たちが逃げるように扉を開けて出ていく。
静寂が戻ったラルク。宮脇は、包丁を静かに引き抜き、白い布巾で刃を拭った。その手は、微かにも震えていなかった。
「……怖かったわね。もう、大丈夫よ」
宮脇は、震える女性二人の元へ歩み寄り、冷え切った彼女たちの手を、自分の温かい掌で包み込んだ。
一人は、堰を切ったように泣き出し、もう一人は、宮脇のシャツに顔を埋めた。
「……私たち、どこにも行く場所がないんです。……親にも、友達にも、変態だって言われて。……この世界に、私たちの居場所なんて、本当にないんですか……」
宮脇は、二人の頭を、ゆっくりと撫でた。
「……いいえ。ここにあるわ。……ラルクはね、フランス語で『橋』。……あなたたちが、本当の自分でいられる世界へと渡るための、夜の橋よ。……明日も、明後日も、私がこのカウンターに立っているわ。だから、安心して、泣きなさい」
宮脇は、厨房に戻り、再びコンソメスープを温め直した。
琥珀色の液体が、彼女たちの胃の腑を温め、強張った心を、ゆっくりと解かしていく。
翌週、その女性二人は、再びラルクの扉を開けた。
さらにその翌週には、彼女たちの「友人」だという、同じ悩みを抱えた別の女性カップルを連れて。
口コミは、孤独な魂たちの間で、静かに、けれど確実に広がっていった。
インターネットもSNSもない時代。
けれど、福岡の夜の街の片隅に、女性同士が堂々と手を握り合い、温かいスープを啜り、涙を流せる「砦」があるという噂は、生きることに渇いた女性たちの、唯一の希望の灯火となった。
宮脇は、カウンターに並ぶ、三組の女性カップルたちの笑顔を見ながら、静かにグラスを磨いていた。
一九九五年の夜、一本の包丁と、一杯のスープから、西新のレズビアン・コミュニティの「原初の種」は、確かに蒔かれたのだ。
宮脇は、手帳の裏表紙に、そっと書き加えた。
『ラルクとは、夜を生きる女性たちの、最初の砦である。……私は、この包丁一本で、彼女たちの明日を、永遠に守り抜く。』
中洲の夜空には、冷たい雨の後に、洗い流されたような、澄み切った星が輝いていた。
宮脇の「止まり木」としての覚悟が、今、孤独な魂たちの「連帯」へと、大きく、静かに昇華し始めた。




