外伝2:第二話「琥珀色の沈黙、あるいは最初の一滴」
一九九一年の二月。天神の夜を冷たい雨が濡らしていた。
開店して一ヶ月。ラルクのカウンターに座る客は、まだまばらだった。若い女性が一人で切り盛りするバー。物珍しさで覗きにくる冷やかしの男たちは、宮脇の隙のない、氷のような接客に辟易して、すぐに別の派手なディスコへと消えていった。
深夜二時。そろそろ店を閉めようかと思ったその時、カウベルが静かに鳴った。
濡れたトレンチコートを羽織り、ずぶ濡れのショートヘアから雫を滴らせた女性が、そこに立っていた。
「……まだ、やっているかしら。どこもかしこも、騒がしすぎて」
ハスキーな声。彼女の切れ長の瞳には、深い疲労と、世界に対する諦念が混ざり合っていた。
宮脇は、何も言わずに会釈をし、彼女をカウンターの奥の席へと促した。
「……いらっしゃいませ。お召し物が濡れています。こちらを」
宮脇が差し出したのは、清潔な白いタオルと、温かいおしぼり。
女性はそれを受け取ると、ふう、と深く息を吐き、カウンターに肘をついた。彼女の名前は、沙織。当時、福岡のアンダーグラウンドな演劇界で、前衛的な舞台演出を手掛けていた新進気鋭の表現者だった。
「……何にする? 温かいものがいいわ。お酒でも、そうでなくても」
「……では、当店のブイヨンを使った、ホット・ブルをお作りします。ウイスキーを、自家製のコンソメスープで割ったものです」
宮脇は、昨日から仕込んでいた琥珀色のコンソメスープを小鍋で温め、そこにシングルモルトのスコッチを注いだ。
漆黒のマグカップに注がれたそれは、立ち上る湯気と共に、泥炭の香りと、肉や野菜の芳醇な旨味を店内に漂わせた。
沙織は、マグカップを両手で包み込み、一口、ゆっくりと啜った。
「……ああ。美味しいわ。……生き返る」
沙織の強張っていた肩が、ゆっくりと解けていく。
彼女は、自分が手掛けている舞台の理不尽さについて、ぽつり、ぽつりと語り始めた。バブルの時代、演劇の世界もまた「分かりやすい娯楽」や「派手な演出」ばかりが求められていた。沙織が本当に描きたい、人間の心の底にある「静寂」や「孤独」は、時代遅れだと一笑に付されていたのだ。
「……誰も、私の言葉を聞いてくれない。……みんな、大声を張り上げて、お祭り騒ぎをしているだけ。……この街に、私の居場所なんて、どこにもないのよ」
沙織の瞳に、微かな涙が浮かんだ。
宮脇は、その言葉を遮ることなく、ただ黙ってグラスを磨き続けた。
アドバイスなど必要ない。正論など、もっといらない。
今、この女性が求めているのは、自分の孤独を「そのまま、そこに置いておける場所」なのだ。
「……沙織さん。……このスープは、三日間、火にかけ続けて、灰汁を掬い取ったものです。……派手な味ではありません。でも、私はこの味が、この街で一番美しいと思っています」
宮脇が、静かに言った。
沙織は、顔を上げ、宮脇の真摯な瞳を見つめた。
「……そうね。……あなたの言う通りだわ。……削ぎ落とした後に残るものこそが、本物なのよね」
二人の間に、琥珀色の沈黙が流れた。
それは、重苦しい沈黙ではなく、互いの孤独を認め合い、静かに寄り添うための、温かな沈黙だった。
宮脇は、沙織の横顔を見つめながら、胸の奥が高鳴るのを感じていた。それは、同じ志を持つ者への深い敬愛であり、あるいは、もっと原初的な、心を奪われる感覚。
それから、沙織は毎晩のようにラルクに現れるようになった。
二人は、閉店後の店内で、朝が来るまで芸術について、孤独について、そして誰も知らない自分たちの「本当の姿」について語り合った。
だが、その季節は、長くは続かなかった。
ある春の夜、沙織はラルクに現れ、いつものホット・ブルを飲み干した後、宮脇の手の上に、自分の冷たい手を重ねた。
「……私、東京へ行くわ。……ここで、このまま腐っていくわけにはいかないの。……あなたのスープに、背中を押されたわ」
宮脇は、重ねられた手の温もりを、一生忘れないようにと心に刻み込んだ。
引き止めたい、ここにいてほしい、私のためにその舞台を福岡で続けてほしい――。
喉まで出かかったその言葉を、宮脇は、寸胴鍋の灰汁のように、力強く飲み下した。
「……いってらっしゃい、沙織さん。……東京で、あなたの本当の舞台を、見せてください」
それが、宮脇の、最初で最後の「報われなかった恋(愛)」だった。
沙織が去った後のラルクのカウンター。
宮脇は、一人で静かにグラスを磨いていた。
胸には、ぽっかりと大きな穴が空いている。けれど、その穴は、決して悲しみだけの色をしていなかった。
自分が作った一杯のスープが、誰かの孤独を包み込み、そして未来へと押し出す。
それこそが、バーテンダーという仕事の、唯一無二の誇りなのだ。
宮脇は、手帳を開き、マスターのレシピの下に、自分の文字で書き加えた。
『バーとは、引き止める場所ではない。……傷ついた羽を休め、再び夜の街へ飛び立たせるための、止まり木である。』
天神の夜空には、沙織が旅立った東京へと続くような、冷たい、けれど澄み切った星が輝いていた。
宮脇の「止まり木」としての人生が、今、最初の一滴の涙と共に、深く、静かに熟成を始めた。




