外伝2:第一話「琥珀色の始まり、あるいは1990年の天神」
一九九〇年、十二月。福岡・天神の親不孝通りは、バブルの長い余韻に浸る若者たちの嬌声と、きらびやかなネオンサインに埋め尽くされていた。
だが、その喧騒から一本裏に入った薄暗い路地裏に、まるで時代の速度を拒絶するように佇む、一軒の古びたジャズバーがあった。
店名は「ラルク」。フランス語で、橋、あるいは弓を意味する言葉。
「……ここを、本当に私が継ぐのね、マスター」
二十代半ばの宮脇は、誰もいない店内で、埃の積もったカウンターを指先でなぞった。
数日前、この店のオーナーであり、宮脇にカクテルの技術と「客の孤独の受け止め方」を叩き込んでくれた老マスターが、静かにこの世を去った。身寄りのなかった彼が、遺言書で店の鍵を託した相手が、アルバイトとして働いていた宮脇だった。
宮脇は、カウンターの奥に立ち、目の前の大きな鏡に映る自分を見つめた。
まだ若く、どこか尖った視線。黒いシャツの袖を捲り上げると、白く細い腕が露わになる。当時はまだ、女性が一人でバーのカウンターに立ち、店を切り盛りするなど、極めて珍しい時代だった。
「……女の細腕で、この街の酔っ払いを相手にできるわけがない」
「マスターの遺産目当てか。若いのに、計算高いことだ」
親戚や、常連を気取っていた年配の男たちの、冷ややかな視線と陰口が脳裏をよぎる。
だが、宮脇の心を支配していたのは、恐怖や怒りではなく、静かな、けれど決して消えることのない「覚悟」だった。
宮脇は、カウンターの下から、一冊の古びた大学ノートを取り出した。
それは、老マスターが遺した「仕込みのレシピ」だった。酒の割り方ではない。そこには、チャージとして出すための、素朴な洋食の作り方が記されていた。
『洋食の基本は、ブイヨンにあり。手間を惜しむ者は、人の心を温めることはできない』
万年筆で書かれた、マスターの無骨な文字。
宮脇は、コートを脱ぎ捨て、厨房のコンロに火を点けた。
鶏ガラ、玉ねぎ、人参、セロリ。バブルの時代、街には高級フレンチや、金箔を散らしたような派手な料理が溢れていた。けれど、マスターがこの店で出し続けていたのは、驚くほど澄み切った、琥珀色のコンソメスープだった。
寸胴鍋に材料を入れ、水を張る。
沸騰させないよう、極小の火で、何時間も煮込んでいく。
立ち上る灰汁を、宮脇は一本のレードルで、執念深く掬い取っていった。
――パチ、パチ、と。
静かな店内に、ガスコンロの燃える音と、ジャズのレコードが回る音だけが響く。
「……私は、媚びない。……安売りもしない。……でも、このスープのように、澄み切った場所を、この街に一つだけ残すわ」
灰汁を取り続ける宮脇の目は、すでに、三十六年後の西新のマンションで律子と愛を見守る、あの「止まり木」の目をしていた。
彼女が削り落としていたのは、スープの灰汁だけではない。自分を取り巻く世間の偏見、若さゆえの迷い、そして、孤独への恐怖。そのすべてを、熱い蒸気の中に蒸発させていく。
深夜。
寸胴鍋の中に、息を呑むほど美しい、透明な琥珀色の液体が完成した。
宮脇は、小さなカップにそれを注ぎ、一口啜った。
熱い液体が、喉を通り、胃の腑に落ちる。
それは、亡きマスターが自分に遺してくれた、最高の「遺産」だった。
「……美味しいわ。マスター」
宮脇は、誰もいない店内に向かって呟き、グラスを磨き始めた。
一九九〇年、十二月。
親不孝通りの喧騒の裏で、新しい「ラルク」の歴史が、静かに、けれど不退転の決意と共に幕を開けた。
女性バーテンダー・宮脇の戦いは、一本のレードルと、琥珀色のスープから始まったのだ。




