外伝1:第十話(最終話)「継承の夜、あるいは小さな魔法」
七月の終わり。西新の空が白み始める午前五時、律子はキッチンから聞こえる微かな「コト、コト」という物音に目を覚ました。
隣で眠る愛を起こさぬよう、静かに寝室を抜け出す。廊下を進むにつれ、寝ぼけた頭を明瞭にするような、どこか懐かしい香りが漂ってきた。昆布の深い静寂と、鰹節の柔らかな抱擁。
薄暗いキッチン。踏み台の上で、五歳の小春が真剣な面持ちで鍋を見つめていた。
その小さな手には、愛がいつも使っているお玉が握られている。危なっかしい手つきで、鍋の表面に浮いた白い灰汁を、一丁前に掬い取ろうとしていた。
「……小春。何をしているの」
律子の静かな問いかけに、小春はビクッと肩を揺らし、振り返った。その顔は、灰汁取りの蒸気で上気し、寝癖のついた髪が額に張り付いている。
「あ……律子ママ。……おこる?」
「怒らないわ。……ただ、火を使うのは危ないわよ。どうして、こんな時間に一人で?」
小春は、お玉を握りしめたまま、おずおずと視線を落とした。
「あのね。……小春、このあいだ、うそついて、愛ママを泣かせちゃったでしょ。……だから、あやまりたくて。……愛ママが、りっちゃんが作ってくれるおつゆは『特別な味がする』って言ってたから。……小春も、二人に、特別な味、あげたかったの」
律子は、眼鏡の奥の目を丸くした。
小春の足元を見ると、踏み台の横には、よし子の手書きのレシピが置かれていた。漢字ばかりのノートを、五歳の少女がどうにか解読しようとしたのだろう。引き出しから取り出した煮干しの頭とワタが、不格好に千切られて小皿に置かれていた。
「……そう。あなたが、私たちのために」
律子は、小春の隣に歩み寄り、同じ踏み台に片足を乗せた。
「小春。出汁を引くのは、誰かを想うことよ。……あなたのその気持ちは、もう立派な魔法よ。……でも、最後の仕上げは、二人でやりましょう」
律子は小春の小さな手を上から包み込み、一緒にお玉を動かした。
鍋の中で、琥珀色の液体が静かに円を描く。
「……いい? 火を止めて、鰹節が沈むのを待つの。……焦っちゃダメ。美味しいものは、待つ時間に育つのよ」
やがて、物音に気づいた愛が、目を擦りながらキッチンに現れた。
コンロの前に並ぶ律子と小春の背中を見て、愛は息を呑んだ。
「……二人とも、どうしたの? こんなに朝早くから」
「愛ママ! 小春ね、おつゆ、作ったの! りっちゃんに、手伝ってもらったけど!」
小春が、誇らしげに胸を張る。
愛が、カウンター越しに差し出された小皿の出汁を、一口啜った。
「……あ、美味しい。……すごく、優しい味がする」
愛の瞳から、ぽろりと涙が溢れ、キッチンの床に落ちた。それは前回の悲しみの涙ではなく、自分たちが蒔いた種が、こんなにも美しく、温かい花を咲かせたことへの、無上の喜びの涙だった。
その日の朝食のテーブルには、三つの器が並んでいた。
小春が引き、律子が仕上げた、透明なお吸い物。愛が昨夜から漬け込んでいた、西新のぬか漬け。そして、炊き立ての白米。
「いただきます」
三人の声が重なる。
律子は、小春の引いた出汁を、ゆっくりと喉に流し込んだ。
完璧なプロの味ではない。少しだけ煮干しの苦味が残り、鰹の香りが若い。
けれど、律子の三十六年の人生の中で、これほどまでに五臓六腑に染み渡り、心を震わせる出汁を、彼女は知らなかった。
「……美味しいわ、小春。……あなたが引いてくれたこの出汁は、大野法律事務所のどんな勝訴判決よりも、私に誇りを与えてくれるわ」
律子の言葉に、小春が満面の笑みを浮かべる。
月十万円。三人暮らし。
家計の数字は、これからも変動し続けるだろう。小春が成長すれば、また新しい反抗や、衝突が起きるに違いない。
けれど、この西新のキッチンがある限り。
誰かを想い、不器用に鍋の前に立つ「祈り」が受け継がれている限り。
この家族は、どんな不条理の嵐が吹こうとも、決して瓦解することはない。
愛が、朝の光が差し込む食卓の写真を撮った。
シャッター音。
画面に映るのは、不格好な朝食と、三人の笑顔。
それは、世界で一番無敵な、生活の証拠だった。
西新の朝空は、どこまでも青く、高く澄み渡っていた。
新しい一日が、今、三人の吸い込む出汁の香りと共に、静かに幕を開けた。




