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五万七千円の安息香(あんそくこう)  作者: 水前寺鯉太郎
外伝集

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外伝1:第九話「反抗期の前兆、あるいは秘密の味」

七月の夕暮れ。西新のマンションのキッチンには、いつもなら愛の鼻歌と、小春の賑やかなおしゃべりが響いているはずだった。

 けれど今、部屋を満たしているのは、冷え切った沈黙だけだった。

 ダイニングテーブルの上には、一枚のカラフルなアルミの包装紙が置かれている。

 市販のスナック菓子。濃いコンソメ味の、油と化学調味料の匂いが、西新の澄んだ出汁の香りを塗りつぶすように漂っていた。

「……小春ちゃん。これ、どうしたの?」

 愛の声は、微かに震えていた。

 夕方、小春が脱ぎ捨てた園児服のポケットから、ゴミを捨てようとした時に滑り落ちたものだった。小春は、リビングのソファの端で、膝を抱えて視線を床に落としたまま、一言も発しない。

「お友達からもらったの? それとも、自分でお店で……」

 愛の問いかけに、小春は唇を噛み締め、小さな肩を震わせた。

「……ちがう。……小春が、買ったの」

 その言葉に、愛の瞳から、ぽろりと大粒の涙が零れ落ちた。

 お小遣いはまだあげていない。小春のプラスチックの宝物箱を確認すると、第4話で彼女が「使っていいよ」と差し出した、静子おばちゃんからもらった百円玉が、消えていた。

 ガチャ、と玄関の鍵が開く音がした。

 仕事から帰宅した律子は、ただならぬ空気を察し、カバンを置くとすぐに二人の元へ歩み寄った。テーブルの上の包装紙と、泣いている愛。そして、頑なに沈黙を守る小春。

「……事情を、説明してくれるかしら」

 律子の声は、裁判官のように冷静だった。けれど、その奥底には、愛を泣かせた小春への、そして小春をそこまで追い詰めてしまった自分たちへの、行き場のない焦燥が渦巻いていた。

 愛が、涙を拭いながら事情を説明する。

 小春は、保育園の帰りに、お迎えのシッターさんの目を盗んで、コンビニに駆け込んだのだという。

 律子は、眼鏡の位置を直し、小春の正面に屈み込んだ。

「小春。……あなたが自分でお買い物をしたかった気持ちは、分かるわ。静子おばちゃんのお金は、あなたのものだから。……でも、なぜ嘘をついて、隠れて食べたの?」

 小春は、しばらく黙っていたが、やがて堰を切ったように泣き出した。

「……だって、みんな、食べてるもん! 保育園の、みんな、キラキラのお菓子、持ってるもん! 律子ママの、おつゆ、おいしいけど……小春、みんなと、おなじのが、よかったんだもん!」

 その叫びは、律子と愛の胸を、鋭く抉った。

 自分たちが良かれと思って提供してきた「丁寧な食生活」。よし子の出汁、重雄のぬか床、無農薬の野菜。それは確かに素晴らしいものだったが、五歳の小春にとっては、時に「周りの友達と違う」という、無言の重圧になっていたのかもしれない。

 

「……ごめんね、小春ちゃん。ママ、小春ちゃんがそんなに我慢しているなんて、気づかなかった」

 愛が、泣きじゃくる小春を抱きしめる。

 律子は、立ち上がり、キッチンのシンクを見つめた。

 自分たちの正義が、知らず知らずのうちに、小春を孤独にしていた。

 

「愛。……泣くのは、もう終わりにしましょう」

 律子は、エプロンを締め、冷蔵庫を開けた。

「……小春。あなたがそのお菓子を美味しいと思ったのなら、それはあなたの『味覚の自由』よ。否定はしないわ。……でも、隠れて食べるのは、私たちの食卓への『裏切り』よ。……だから、今夜は、そのコンソメ味に、私たちのやり方で、真っ向から勝負を挑ませてもらうわ」

 律子が取り出したのは、鶏の挽肉と、玉ねぎ、そしていつもの黄金色の出汁。

 フライパンで炒め、出汁で煮詰め、ほんの少しの醤油と、みりんで調える。

 出来上がったのは、即席の「鶏の和風そぼろ」。それを、炊き立ての白米にたっぷりと乗せる。

「……食べなさい、小春。これが、私たちの『ジャンクフード』よ」

 涙で目を腫らした小春が、おずおずとスプーンを動かす。

 一口。鶏の脂の甘みと、出汁の旨味が、舌の上で爆発する。

 市販のスナック菓子の刺激的な味に負けない、けれど、後味がどこまでも優しい、律子流の「濃い味」。

「……おいしい。……コンソメのより、あったかい」

 小春が、もぐもぐと頬張りながら、小さな笑顔を取り戻す。

 

 月十万円。三人暮らし。

 家計の計算よりも、もっと複雑な、人間の心の機微。

 子供の成長は、親の作った「完璧な檻」を壊していくこと。その破壊を、いかに愛おしく受け止めるか。

 律子は、手帳の「小春案件」のページに、そっと書き加えた。

 『第9段階:反抗期とは、自立の産声である。……親の正義を押し付けず、新しい味を、共に受け入れること。』

 

 西新の夜空には、少し雲がかかっていた。

 けれど、三人の食卓には、雨降って地固まるような、新しい、そして少し「やんちゃな」香りが、確かに満ちていた。

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