外伝1:第八話「法律上の『家族』、あるいは無色透明な盾」
深夜二時。西新のマンションの書斎には、デスクスタンドの白い光だけが灯っていた。
大野律子は、眼鏡の奥の目をしばたたかせながら、ディスプレイに表示された無機質な書式を見つめていた。
『特別養子縁組成立の申立書』
独立し、自らの法律事務所を立ち上げた律子にとって、裁判所に提出する書類など日常の業務に過ぎない。民法、家事事件手続法、判例の検索……。頭脳は冷徹に、効率的に、最短ルートの文面を構築していく。
だが、今夜ばかりは、キーボードを叩く指先が、微かに震えていた。
「……六ヶ月の監護期間。父母による養育が著しく困難又は不適当であること。子の利益のため特に必要があると認められること……」
法律の条文は、どこまでも厳格で、どこまでも冷たい。
そこには、小春が夕食のつくね汁を「あったかい」と笑った時の温度も、愛の膝の上で船を漕いでいた時の寝息も、重雄のぬか蔵で泥だらけになった小さな掌の温もりも、一切反映されない。
裁判官が判断するのは、提出された「紙の束」という名の証拠だけだ。
「……足りないわ。これじゃ、私たちの生活の半分も証明できない」
律子は、キーボードから手を離し、顔を覆った。
かつて、愛との共同生活を始めるにあたり、自分たちは「公正証書」という契約を交わした。数字と条文で自分たちを縛り、防衛線を張った。
けれど、小春という存在を前にした今、律子が欲しいのは「防衛」ではなく、彼女の未来を全方位から包み込む「無敵の盾」だった。
ガチャ、と静かにドアが開いた。
パジャマ姿の愛が、トレイに乗せたマグカップを二つ持って立っていた。
「……りっちゃん。まだ、書類と戦ってるの?」
「ええ。……法律っていうのは、本当に不器用な道具だわ。私たちが小春をどれだけ愛しているか、この紙切れ一枚では、裁判官に一割も伝わらない気がするの」
愛は、律子のデスクの横に椅子を引き、マグカップを置いた。
立ち上る湯気。それはコーヒーではなく、よし子のレシピで引いた、あの透明な出汁だった。具材は何もない。ただ、ほんの少しの塩と、薄口醤油だけで調えられた、深夜の身体に染み渡る液体。
「……飲んで。頭を使いすぎると、心が冷えちゃうよ」
律子は、両手でカップを包み込み、一口啜った。
昆布の深い静寂が、焦燥に駆られていた脳髄を、ゆっくりと凪へと導いていく。
「りっちゃん。法律の言葉が冷たいなら、私たちの『言葉』を添えればいいんじゃないかな。……ほら、私たちがずっとやってきたことだよ」
愛が、一冊の分厚いアルバムを開いた。
そこには、第12話から愛が撮り続けてきた、日々の食卓の写真が並んでいた。
二人の質素な食事から始まり、小春がやってきた日のつくね汁、野菜を食べられた日の空っぽの皿、ラルクのカウンターで笑う小春の姿……。
「これを、申立書の添付資料にするのよ。……裁判官に、私たちの『生活の積み重ね』を見てもらうの」
律子は、眼鏡を拭い、アルバムの写真を一枚一枚、愛おしそうになぞった。
「……そうね。これ以上の『証拠』はないわ。……法律が定める基準を、私たちの『生活の体温』で満たすのよ」
再び、キーボードの音が響き始めた。
けれど、今度の音は、どこか軽やかで、確かなリズムを刻んでいた。
申立書の余白に、律子は「上申書」として、自分の言葉を綴り始めた。
『私たちは、血の繋がりを持たない。けれど、毎晩同じ出汁を啜り、同じぬか床をかき混ぜることで、私たちは一つの有機体となった。小春の成長は、この食卓の記録が証明している。彼女の利益とは、この安息を、永遠の権利として保障することである。』
月十万円。三人暮らし。
深夜の書斎で、法律の論理と、生活の愛情が、完璧な「和解」を果たした。
窓の外、西新の夜空には、明け方の藍色が混ざり始めていた。
律子は、完成した書類の束の上に、そっと手を置いた。
それは、世界で一番無機質で、世界で一番温かい、三人のための「盾」だった。




