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五万七千円の安息香(あんそくこう)  作者: 水前寺鯉太郎
外伝集

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外伝2:第十話(最終話)「虹の架け橋、永遠の止まり木」

二〇二六年、春。舞鶴公園の桜が、淡いピンク色の雪のように舞い散る早朝。

 宮脇は、一人で散歩道を歩いていた。

 右手に握られたリードの先には、もう誰もいない。けれど、ふとした瞬間に、短い足でトコトコと歩くななの足音や、ふん、と鼻を鳴らす気配が、風の中に混じっているような気がした。

「……お疲れ様、なな。……よく頑張ったわね。……あなたは、最高の看板犬だったわよ」

 数日前、ななは宮脇の膝の上で、眠るようにして息を引き取った。

 虹の橋を渡ったその魂は、今頃、天国の広い野原を走り回っているだろう。

 五十代半ばを過ぎた宮脇の心には、ぽっかりと大きな穴が空いていた。けれど、その穴は決して虚無ではなく、ななと共に過ごした十年の温もりで、琥珀色に縁取られていた。

 深夜。親不孝通りの外れにある「ラルク」の店内。

 宮脇は、いつものように黒いシャツの袖を捲り上げ、厨房に立っていた。

 コンロの上には、一九九〇年から三十六年余り、絶やすことなく繋いできた、あの寸胴鍋。

 

 鶏ガラ、玉ねぎ、セロリ、そして西新の市場で仕入れた新鮮な香味野菜。

 宮脇は、極小の火で、静かに、執念深くスープを煮込んでいった。

 ななはいなくなった。けれど、このスープの香りが、ななの温もりを店内に呼び戻してくれるような気がしていた。

 

 ――パチ、パチ、と。

 ガスコンロの燃える音が、静寂な店内に響く。

 灰汁を掬い取る宮脇の手つきは、熟練の職人の、あるいは慈愛に満ちた母のそれだった。

 カウベルが、賑やかな音を立てて鳴った。

 

「……宮脇ママ! こんばんは!」

 入ってきたのは、手を繋いだ律子と愛、そして、ランドセルを背負ったままの小春だった。

 一九九五年の「最初の砦」の時代には、想像もできなかった光景。

 かつて氷のようだった弁護士・大野律子は、今や穏やかな微笑みを浮かべ、愛の隣で、一人の母親としての柔らかい空気を纏っている。

「ななちゃん、お空に行っちゃったんだよね。……これ、ななちゃんに」

 小春が、小さな手に握りしめていた色鉛筆の絵を、カウンターに置いた。

 そこには、大きな虹の下で、笑顔のななが、律子と愛と小春、そして宮脇と一緒に走っている姿が描かれていた。

 宮脇は、その絵をそっと手に取り、眼鏡の奥の目をしばたたかせた。

 

「……ありがとう、小春ちゃん。……ななも、きっと喜んでいるわ。……さあ、みんな、お腹が空いたでしょう? 今夜は、ななの名前をつけた、特別なコンソメスープを振る舞うわね」

 宮脇は、漆黒のマグカップに、琥珀色の液体を注いだ。

 律子、愛、小春。三人がそれを一口啜ると、店内には、春の陽だまりのような温かさが広がっていった。

「……ああ、美味しい。……宮脇ママ、このスープを飲むと、どんなに辛いことがあっても、明日も頑張れる気がするわ」

 愛が、愛おしそうにカップを眺める。

「……ええ。……ここは、私たちの、永遠の『止まり木』ですものね」

 律子が、宮脇の瞳を見つめ、静かに頷いた。

 宮脇は、カウンターの奥で、三人を見守りながら、静かにグラスを磨いた。

 かつて、沙織を送り出し、ゴロツキと戦い、西新で生活を学び、天神に凱旋した。

 そのすべての歳月は、この三人の笑顔に辿り着くための、長い、長い旅路だったのかもしれない。

 

 命は、巡っていく。

 老マスターから自分へ、自分からななへ、そして、律子や小春たち、次の世代へ。

 「ラルク(虹)」という名の橋は、過去と未来を、そして孤独と温もりを、琥珀色のスープという名の絆で繋ぎ続けている。

 深夜。客が帰り、静寂が戻ったラルク。

 宮脇は、カウンターの端、なながいつも座っていた場所に、一杯のコンソメスープを供えた。

 

 月十万円。三人暮らし。

 西新のマンションで展開される彼女たちの物語の傍らで、宮脇はこれからも、この親不孝通りの外れで、灯りを灯し続けるだろう。

 誰かが傷つき、羽を休めたくなった時、いつでもこの琥珀色の光に辿り着けるように。

 宮脇は、手帳の「ラルク」の最後のページに、万年筆でこう記した。

 『第10段階:虹の架け橋。……ななは、私たちの心の中に生き続ける。……私はこれからも、このカウンターで、誰かの孤独を包み込むスープを煮込み続ける。……バーテンダーとしての人生は、今、ここからまた始まる。』

 親不孝通りの夜空には、ななの瞳のように澄み切った、明けの明星が輝いていた。

 宮脇の「止まり木」としての人生が、今、永遠という名の安息と、新しい始まりの光に包まれていた。

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