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五万七千円の安息香(あんそくこう)  作者: 水前寺鯉太郎
外伝集

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外伝1:第三話「下関からの風、あるいは姉のまなざし」

日曜日の昼下がり、西新のマンションのインターホンが鳴った。

 玄関を開けると、そこには潮風を纏ったような、凛とした佇まいの女性が立っていた。律子の二歳上の姉、静子だ。

「……久しぶりね、律子。元気そうで安心したわ」

 静子の声は、小倉の実家で荒れ狂う父・重雄の怒号から律子を庇い続けていたあの頃と、少しも変わっていなかった。彼女は唯一、律子が「女二人で生きていく」と宣言した時、冷ややかな親族の中でただ一人、律子の手を握りしめ、「あんたの人生よ」と言ってくれた人だった。だが彼女自身もまた、小倉の窮屈さに耐えきれず、下関の商社への就職を機に、関門海峡を渡って家を出てしまった。

 リビングに入ると、ソファの陰から小春がおずおずと顔を出した。愛がキッチンから「お姉さん、いらっしゃい」と声をかけ、淹れたての茶を運んでくる。

「……この子が、小春ちゃん? 律子に似て、ちょっと頑固そうな目をしてるわね」

 静子が屈み込み、小春と同じ目線になる。小春は、初めて会う律子の家族に緊張しながらも、静子が差し出した下関の土産——可愛らしいフグの形の最中に、瞳を微かに輝かせた。

 その日の夕食は、静子を囲んでの少し豪華な食卓になった。愛が腕を振るったのは、下関から届いた連子鯛の煮付けと、小春が怖くないと言った黄金色の出汁をたっぷり含ませた出汁巻き卵、そして西新のぬか床から取り出したばかりの、瑞々しい胡瓜だ。

「……美味しいわ。律子、あんたがこんなに『生活』の匂いのする場所に辿り着くなんて、あの頃の私には想像もできなかった」

 静子が、煮付けの身を解しながら、静かに呟いた。

「……お姉さんがいなかったら、私は今、ここにいないわ。……あなたが下関へ行く日、私は本当は、行かないでって縋りたかった。でも、お姉さんの自由を奪いたくなかったの」

 律子の言葉に、食卓が一瞬、静まり返った。小春が、不思議そうに二人の顔を見比べる。愛は、黙って律子の手に自分の手を重ねた。

「……でも、見て。今の私は、もう一人じゃないわ。……愛がいて、小春がいて。……あなたが守ってくれた私の芽は、西新でこうして、別の形の花を咲かせているのよ」

 静子は、愛が作った出汁巻き卵を口に運び、ゆっくりと噛み締めた。

「……ええ。分かるわ。この卵焼き、律子が昔お腹を空かせて泣いていた時に私が作ってあげた味に、どこか似ているもの。……あんたたち、本当によく頑張ったわね」

 静子の瞳から、一筋の涙が零れ落ちた。

 夜、静子が下関へ帰る時間が近づいた。玄関で、小春が静子のコートの裾を掴んだ。

「……また、お姉ちゃん。フグの、持ってきてくれる?」

「ええ、もちろんよ。……今度は、下関の海を見にいらっしゃい。美味しいお魚、たくさん食べさせてあげるから」

 静子の背中を見送り、律子は夜風を吸い込んだ。

 キッチンの流し台で、愛が食器を洗う音がする。

 律子は、小春を抱き上げ、リビングの灯りを消した。

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