外伝1:第二話「好き嫌いと出汁」
小春が西新のマンションにやってきてから、二週間が経った。
初日のつくね汁で見せた柔らかな表情は、翌朝には霧のように消え去っていた。食卓に並ぶ色鮮やかな温野菜、律子が丹精込めて漬けたぬか漬け、よし子のレシピで引いた透き通ったお吸い物。それらを前にして、小春はただ、箸を握りしめたまま石のように固まってしまうのだった。
「小春ちゃん、これ、一口だけ食べてみない? 律子ママが頑張って作った、とっても美味しいお茄子だよ」
愛が、努めて明るい声で促す。だが、小春は小さく首を振るだけだ。
「……嫌い。色、こわい」
ぽつりと漏らしたその言葉に、律子は眼鏡を指先で直した。
「小春さん。食べない理由は自由よ。……でも、私たちはあなたの体が心配なの」
律子の言葉は、かつての自分自身に向けていたような、不器用な正論だった。小春は、そのまま黙って椅子から降り、リビングの隅へ逃げるように去っていった。残された食卓には、誰にも手を付けられなかった色とりどりの善意が、虚しく冷えていく。
その夜、律子と愛は、小春が寝静まった後のキッチンで、小さな反省会を開いた。
「……りっちゃん。小春ちゃん、前の場所では、茶色い揚げ物やスナック菓子しか食べてなかったみたい」
愛が、自治体から渡された小春の生活記録を見つめて呟く。
「野菜の色が『怖い』って言ったのは、見たことのないものへの警戒心なんだよ。……私たちが、かつて『家族』という言葉に怯えていたのと、同じなの」
律子は、キッチンの隅にあるぬか床に目をやった。自分の手で作り、育て、信じられるようになったもの。
「……愛。一度、私たちの『正しさ』を捨てましょう」
「えっ?」
「よし子さんのレシピも、重雄さんのぬか漬けも、今の小春さんには重すぎるのよ。……まずは、彼女が信じられる『一色』から始めればいい」
翌日の夕食。律子が用意したのは、透き通った黄金色の出汁だけのおつゆだった。具は何もない。野菜の緑も、肉の赤もない。ただ、湯気が立ち上る、静かな水面のような一杯。そして、白米に、小春が唯一怖くないと言った、ほんの少しの塩味の効いた焼き魚。
「小春ちゃん。今日はね、色はないよ。……ただの、あったかいお水だと思って飲んでみて」
愛が、小春の目線に合わせて囁く。小春は、疑い深い瞳で椀を覗き込んだ。そこには、何も隠されていない。律子が三時間かけて、雑味を一切残さずに引いた、純粋な時間の結晶があるだけだ。
小春が、おずおずと椀を手に取る。一口。舌の上に広がるのは、昆布の深い静寂と、鰹節の柔らかな抱擁だった。
「……あまい」
小春が、呟いた。
「そうよ。……それは、野菜や魚たちが、あなたを助けたくて出している甘みなのよ」
律子が、初めて小春の隣に座り、同じ椀を啜った。
その夜、小春は初めて、自分から白米を口に運んだ。完食には程遠い。けれど、三つの器が並んだ食卓に、初めて信頼という名の、無色透明な一滴が落ちた。
律子は、食卓の端に置かれた自分の手帳に、新しく書き加えた。
『小春案件:第2段階。信頼は、無色透明の出汁から始まる。』
「明日も、このおつゆ、作ってくれる?」
寝る前、小春が律子のパジャマの裾を引いて言った。律子は、眼鏡の奥の目を細め、静かに、けれど力強く頷いた。
「ええ。……あなたが怖くないと思えるまで、何度でも引くわよ。世界一、透き通った出汁をね」




