外伝1:第一話「三つ目の椅子」
六月の雨は、西新の街を煙らせ、アスファルトの熱を静かに奪い去っていく。
大野律子は、マンションの玄関で、自分よりもずっと低い位置にある視線を受け止めていた。
小春、五歳。施設から一時保護を経て、正式な里親委託の手続きを終えた少女は、小さなビニール製の手提げ袋を両手で握りしめ、濡れた靴の先を見つめていた。その肩は、目に見えない巨大な外敵から身を守るように硬く強張っている。
「……小春ちゃん。今日から、ここがあなたの家よ」
律子の言葉は、かつて法廷で放ったどんな鋭い弁論よりも、慎重に、そして柔らかく編まれていた。
奥から、エプロンを締めた愛が駆け寄ってくる。その顔には、母親としての戸惑いと、同じ痛みを知る者としての深い慈しみが混ざり合っていた。
「いらっしゃい、小春ちゃん。……お腹、空いてない? 今、美味しいご飯ができているよ」
小春は返事をしなかった。ただ、一歩、また一歩と、自分を拒絶しないと分かっているフローリングの上を、慎重に歩み進める。
リビングのダイニングテーブル。そこには、二つの席の間に、新しく、少し小ぶりな三つ目の椅子が置かれていた。
その日の夕食は、律子が朝から準備した鶏のつくね汁と、西新のぬか床でじっくりと漬け込んだ大根、そして艶やかに炊き上がった白米だった。
三人が席に着く。
「……いただきます」
律子と愛の声が重なる。小春は、二人の様子を伺いながら、おずおずと割り箸を手に取った。
彼女が最初に箸をつけたのは、つくね汁だった。よし子のレシピを忠実に守り、三時間かけて引いた一番だし。昆布の底深い旨味と、鰹節の華やかな香りが、鶏の脂と混ざり合って、黄金色の雫となっている。
小春が、一口、汁を啜った。少女の小さな喉が、こくりと鳴った。強張っていた眉間の皺が、春の雪が解けるように、ほんのわずかに緩む。
「……これ、あったかい」
それが、小春がこの家で発した、最初の言葉だった。
愛が、隣でそっと涙を拭った。
「小春ちゃん。おかわり、あるからね」
愛の声が、雨の音に優しく溶けていく。
律子は、小春の茶碗に、二杯目の白米をそっと装った。




