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五万七千円の安息香(あんそくこう)  作者: 水前寺鯉太郎
シーズン3

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連子鯛の凱旋、あるいは新しい名前

西新の商店街を吹き抜ける風は、一年前と同じ、少し塩気を帯びた初夏の匂いがした。

 夕暮れの魚屋の店先。氷の上に並んだ淡い桃色の鱗。

「……五百八十円。一年前と同じだね、りっちゃん」

「ええ。……けれど、今の私たちには、この安さが『不足』ではなく『豊かさ』に見えるわ」

 律子は慣れた手つきで小銭を出し、連子鯛を一匹買い求めた。

 マンションまでの帰り道。かつての律子は、ビニール袋の重みを削らなければならないコストとして感じていた。けれど今は、隣を歩く愛の歩幅に合わせて、その重みを分かち合う熱量として楽しんでいる。

 キッチンの明かりを灯し、二人は並んで立った。

「……今日は、私が捌くね。りっちゃんは、重雄さんのぬか床をお願い」

 愛が、迷いのない手つきで出刃包丁を握った。かつて律子が守るようにして包丁を振るっていた場所。今は愛が、その生活の最前線を担っている。パチパチと、真珠のような鱗がシンクに舞う。その一粒一粒が、この一年間の記憶のように輝いていた。

「……内臓、取るわよ。……苦いけれど、これが一番美味しいのよね」

 律子は、愛の横からそっと手を添えた。かつては一人で飲み込んできた苦味を、今は二人で分け合うことができる。

 役割は入れ替わったのではない。溶け合い、混ざり合い、二人の境界線は、この部屋を満たす出汁の香りのように、もう誰にも分かつことはできないものになっていた。

 食卓には、黄金色に焼けた連子鯛の塩焼き、西新で育ったぬか漬け、そしてよし子のレシピで引いた透き通った吸い物が並んだ。

「……いただきます」

 一口、身を解して口に運ぶ。あの頃の、震えるような孤独の味は、もうどこにもない。

 愛が、スマートフォンを構える。レンズ越しに見えるのは、不格好な料理ではない。今日も、明日も、この場所で生きていくという、揺るぎない家族の姿だった。

 律子は、窓の外の西新の夜景を眺めた。一年前、絶望の淵で見た街の灯りは、今はただ、穏やかな光として瞬いている。

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