黄金の円環、あるいは一年目の出汁
七月、最初の日曜日。
西新の空を茜色に染めていた夕日が落ち、マンションの窓からは夜の帳が静かに下りてきた。一年前のこの日、二人は初めて「日曜の夜の出汁」を契約書に記した。あの日、愛の瞳には不安が宿り、律子の肩には法的な責任という名の重圧がのしかかっていた。
けれど今、キッチンに立つ律子の背中に、気負いはない。
「……いい香り。今年も、この匂いが部屋に満ちる季節になったね」
ソファで針を動かしていた愛が、ふと顔を上げて鼻をくすぐらせる。
律子は、無言で昆布を引き上げた。重雄から届き続ける肉厚な真昆布。続いて、よし子から届いたレシピ通り、沸騰直前の湯に鰹節を躍らせる。
――五十二回。
この一年間、二人が日曜日の夜に欠かさず繰り返してきた儀式。体調が悪い日も、仕事で打ちのめされた日も、二人はこの火の前に立ち、黄金色の液体を抽出してきた。
律子は、キッチンの隅にある陶器の容器へ手を伸ばした。一年かけて育て上げた、西新のぬか床。指先を沈めると、糠は生き物のように温かく、律子の手に馴染む。かつては汚れだと思っていた糠の感触が、今は自分のアイデンティティを繋ぎ止める、唯一無二の感触となっていた。
「……漬かったわよ。愛」
「うん。……ご飯、炊けた」
食卓に並んだのは、一年前と同じ、けれど決定的に違う一汁一菜。透明な出汁の吸い物、琥珀色のぬか漬け、そして真っ白な米。
律子は、吸い物を一口含んだ。喉を通る熱が、この一年を肯定していく。
「……りっちゃん。私たち、ちゃんと一年、生きたね」
「ええ。……数字の上での契約じゃない。この出汁の香りが、私たちの『家族』の正体よ」
愛が、スマートフォンを取り出し、慣れた手つきでシャッターを切った。ただ、そこに在るという当たり前の奇跡を、慈しむためのシャッター音だった。




