琥珀の呼吸、あるいは西新の結実
十月。西新の街には、金木犀の香りがどこからともなく漂い始めていた。
展示会の喧騒が遠い記憶のように感じられるほど、マンションの室内は静まり返っている。律子は帰宅すると、上着を脱ぐのももどかしく、キッチンの隅に置かれた陶器の容器へと向かった。
蓋を開けると、そこには一ヶ月前のような刺すような酸味も、若すぎる塩気もない。筑後の土の力強さと、西新の穏やかな空気が混ざり合い、熟成された、芳醇で深い発酵の香りが立ち上っていた。
律子は、昨日漬け込んだ胡瓜を一本、静かに取り出した。水で洗い、まな板の上で丁寧に切る。
「……愛。食べてみて」
隣に立った愛と、一切れずつ口に運ぶ。
――カリ、と、これまでで最も澄んだ音がした。
「……あ、美味しい」
愛の瞳が、驚きと喜びに丸くなる。
「うん。……やっと、決まったわね。筑後でも久留米でもない、私たちの、西新の味に」
ただ塩辛いだけではない。昆布の旨味と、糠が抱え込んできた日々の空気、そして律子が毎日欠かさずかき混ぜてきた時間が、野菜の芯まで透き通るような調和をもたらしていた。
律子は、珍しく自分からスマートフォンを手に取った。発信先は、筑後の重雄。数回の呼び出し音の後、低く、不愛想な声が響いた。
『……あ?』
「お父さん。……漬かったわ。美味しい胡瓜が」
沈黙。電話の向こうで、重雄が鼻を鳴らす音が聞こえた。
『……そうか。……なら、よか。……混ぜるのを、止めるなよ』
「ええ。分かっているわ。……おやすみなさい」
通話時間は、わずか三十秒。けれど、律子の心には、一万文字の弁論よりも確かな肯定が届いていた。
その夜の食卓は、これ以上ないほど簡素だった。炊き立ての白いご飯。そして、小皿に盛られた、琥珀色に輝くぬか漬け。
「……おかず、これだけでいいの?」
愛が少し心配そうに笑うが、律子は満足げに頷いた。
「ええ。今夜は、この味の完成を祝いたいから。余計なものは、何もいらないわ」
ご飯の甘みと、ぬか漬けの深い酸味。たったそれだけの繰り返しが、体の芯まで届いていく。
愛が、幸せそうに頬杖をつく。
「りっちゃん。……私たち、本当の意味で、ここが『家』になったんだね」
「ええ。……そうね」




