継承のしずく、あるいはラルクの放課後
九月の終わり。ラルクの重い扉を開けると、そこには夜の喧騒とは違う、清潔な昼の熱気が満ちていた。
カウンターの中には、エプロン姿の佐野が立っている。その前には、ラルクの常連が、真剣な面持ちで包丁を握っていた。
「……そう、力は入れなくていいんです。玉ねぎの繊維に沿って、優しく滑らせるだけで」
佐野の声は、以前よりもずっと透き通って響く。
律子は、事務所の帰りにその様子を遠目から眺め、そっとドアを閉めた。彼女の仕事は、もうここでは必要ない。佐野は自らの手で、亡きパートナーとの十年間の記憶を、誰かの明日の糧へと変え始めていた。
その夜、西新のマンション。愛がキッチンで鼻歌を歌いながら、見たことのない一皿を仕上げていた。佐野の教室の初日に、おまけで教わったという「小松菜と厚揚げの煮浸し」だった。
「これね、佐野さんが言ってたんだ。……『悲しいことがあった日は、少しだけお砂糖を多めにして、自分を甘やかしてあげてください』って」
食卓に並んだのは、琥珀色の出汁が染み込んだ、艶やかな緑。律子が一口運ぶと、鰹節の強い香りの後に、佐野の言葉通りの優しい甘さが追いかけてきた。あの夜食べた、震えるようなもやしとは違う、余裕と慈しみに満ちた味だった。
「……美味しいわね。佐野さん、いい先生になりそう」
「うん。ラルクのみんなも、なんだか楽しそうだったよ。……ねえ、りっちゃん。私たちのこの食卓も、いつか誰かに『美味しい』って手渡せる日が来るのかな」
愛の言葉に、律子は自分の指先を見た。筑後のぬか床を混ぜ、日曜の夜に出汁を引く。その無骨な習慣の積み重ねが、今の自分を支えている。
「ええ。……でもそれは、もっと先の話でいいわ。今はまだ、この味を二人で独占していましょう」
律子は、佐野から伝わってきた甘い煮浸しをもう一口食べた。




