レンズ越しの砦、あるいは始まりの食卓(後編)
数日後、陽葵が一人で事務所を訪ねてきた。その瞳には、決意と、それを上回る恐怖が混ざり合っていた。
「……先生。私、今週末、実家に帰って両親に話そうと思います。紬とのことを。……先生、もしよければ、一緒に来ていただけませんか? 弁護士さんがいてくれたら、きっと……」
律子は、手にしていた資料を静かに置いた。かつての自分なら、迷わず「同行しましょう」と答えていただろう。だが、今の律子は知っている。親子の魂の境界線は、法律という刃では決して綺麗に整理できないことを。
「いいえ。私は行かないわ、陽葵さん」
「えっ……」
「これは、契約の交渉ではないの。あなたたちの『生活』を認めてもらうための、地道な、けれど避けては通れない対話よ。……私の言葉は、あなたの両親にはただの『理屈』にしか聞こえない。でも、あなたの言葉には、あなたが紬さんと積み上げてきた時間の匂いが宿っているはずよ」
律子は、引き出しから一冊のノートを取り出し、陽葵に手渡した。
「怖くなったら、この数日間に撮り始めた食卓の写真を思い出しなさい。……あなたたちは、もう一人じゃない。少し焦げたおかずや、不揃いな箸置きが、あなたの背中を押してくれるわ。……自分の言葉で、話しなさい」
週末。陽葵は一人、実家へと向かった。律子は西新のマンションで、愛と二人、静かな時間を過ごした。
週明け。事務所のドアが勢いよく開いた。少しやつれた、けれど晴れやかな顔をした陽葵と、彼女を支える紬だった。二人の手には、丁寧に包まれた重たいタッパーがあった。
「先生! ……すぐには分かってもらえませんでした。父には怒鳴られ、母には泣かれました。……でも、必死で話したんです。私たちは、ただ一緒にご飯を食べて、明日を頑張ろうって笑い合いたいだけなんだって。……そしたら、母が、これを持っていけって」
タッパーの中には、陽葵の実家の味だという筑前煮がぎっしりと詰まっていた。完全な理解ではない。けれど、拒絶でもない。娘の食べるものを案じるという、親としての最小限の、そして最大の歩み寄りだった。
その日の夜、律子は愛と一緒に、二人から贈られた筑前煮を温め直した。
「……味が濃いね。陽葵さんの実家は、きっと賑やかな食卓なんだろうな」
愛が、牛蒡を噛み締めながら言う。
「そうね。……言葉は足りなくても、この根菜の固さの中に、お母さんの迷いと愛情が詰まっているわ。……合格ね」
律子は、自分の手帳に「陽葵・紬案件:第一段階完了」と記した。
愛が撮った、今夜の食卓の写真。そこには、自分たちの料理と、他人の実家の味が、不思議と調和して並んでいた。




