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五万七千円の安息香(あんそくこう)  作者: 水前寺鯉太郎
シーズン3

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レンズ越しの砦、あるいは始まりの食卓(前編)

九月の半ば。天神の事務所に現れたのは、まだ大学生のような幼さを残した、二十代前半の女性二人組だった。

 陽葵と、紬。

 二人は、組んだ指先を白く震わせながら、律子の前に身を寄せ合うようにして座った。

「……私たち、まだ一緒に住み始めて三ヶ月なんです。でも、ネットで佐野さんの和解の記事を読んで……怖くなったんです。もし、どちらかに何かあったら、私たちは赤の他人として追い出されてしまうんですか?」

 陽葵の切実な問いに、律子は眼鏡を指先で直し、静かに二人を見つめた。かつての自分と愛が、小倉と久留米の影に怯えていたあの夜を思い出す。

「いい? 法律は、後からあなたたちを守りに来ることはないわ。……守るための『武器』は、今、あなたたちの台所で作らなきゃいけないの」

「台所で……ですか?」

 紬が、不思議そうに首を傾げた。

「ええ。今日から、毎日の食卓の写真を撮りなさい。豪華な外食じゃない。並んで座っている二人の肩、安売りの肉を炒めたお皿、使い込まれた箸置き。……それらの一枚一枚が、将来、あなたたちが『家族であること』を証明する、何万文字の弁論よりも強い証拠になるわ」

 二人は顔を見合わせ、小さく、けれど力強く頷いた。

「……やってみます。今日、帰りに二人で、新しいお皿を買って帰ります」

 二人が希望を胸に事務所を去った後。律子は西新のマンションへと急いだ。玄関を開けると、展示会に向けて深い緑色の糸と格闘している愛の姿があった。

「おかえり、りっちゃん。……今日は、なんだか優しい顔してる」

「そうかしら。……ねえ、愛。私たちの最初の写真、覚えてる?」

 愛は手を止め、少し首を傾げてから、あの分厚いアルバムを棚から取り出してきた。めくられた一ページ目。そこには、あの頃、律子が一人で震えながら作った、もやしと豚こま肉の炒めものが、少しボヤけたピントで写っていた。

「……これ、りっちゃんが撮ったんだよね。まだ私がここに来る前、一人で戦おうとしてた時の」

「ええ。当時は、これが愛の証明になるなんて思ってもみなかった。ただ、一円も無駄にできないという恐怖の記録だったわ」

 律子は、写真の中の貧相な一皿を、愛おしそうになぞった。

「今日ね、若い子たちに教えたの。写真を撮りなさいって。……幸せを記録するんじゃない、戦うために撮りなさいってね」

「ふふ、りっちゃんらしい。……でもね、りっちゃん。撮り続けていくうちに、それはいつの間にか『戦うため』じゃなくて、『美味しかったね』って笑い合うための日記に変わっていくんだよ。……私がそうだったみたいに」

 愛が、律子の肩に頭を預ける。

 西新のキッチンには、今、新しいぬか床が静かに呼吸をしている。

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