ぬか床、西新に根付く
八月の終わり。天神の喧騒を抜け、西新のマンションへと帰宅した律子の足元に、一通の白い封筒が落ちていた。
消印は筑後。裏面には「重雄」とだけ、震えるが力強い筆致で書かれている。
リビングの明かりをつけ、鞄を置くのももどかしく封を切る。中には、便箋の端を破ったような紙切れが一枚。
『種ぬかは育っとるか』
たった一行。用件のみを記したその言葉は、父が土壁の向こうから今の律子の生活を検分しているような圧があった。
律子はキッチンへ向かった。隅に置かれた小ぶりな陶器の容器。筑後から持ち帰った種ぬかに、律子が新たに足した糠と塩と水が混ざり合い、小さな宇宙が形成されていた。この三週間、どれほど疲れて帰っても、律子は必ず手を洗い、その容器の中に指を沈めてきた。
「……におい、変わってきたね」
背後から愛が声をかける。容器に鼻を近づけると、当初の刺すような酸味から、森の湿り気に似た香りが微かに漂い始めていた。
「ええ。筑後の土の匂いから、少しずつ『この家の空気』に染まり始めている気がするわ」
律子は、昨日漬け込んだ胡瓜を一本、静かに取り出した。水で洗い、まな板の上で二つに切る。愛と並んで、その一切れを口に運んだ。
――カリ、と乾いた音がリビングに響く。
「……どう?」
「……まだ、若いわね」
ただ塩辛い。筑後の実家で食べた、あの脳天を突き抜けるような旨味も、長い年月が醸し出す複雑な余韻もない。背伸びをして大人びた服を着た子供のような、不格好な味だった。
「ぬか床って、急いでも育たないんだね」
「そうね。毎日混ぜて、毎日空気に触れさせて。……何十年という当たり前の時間を積み重ねないと、あの味には届かない。……お父さんが守ってきたものは、数字で測れるようなものじゃなかったのね」
律子は、書斎から便箋を取り出した。万年筆の先が、紙を滑る。
『育てています』
それだけを書き込み、封を閉じる。愛にその手紙を託すと、彼女は「散歩がてら、入れてくるね」と、夜の西新の街へと消えていった。
一人残されたキッチンで、律子は再び容器の中に手を差し入れた。ねっとりとした糠が指に絡みつく。律子の指先には、確かに父と同じ土の匂いが移っていた。
愛がポストに向かう後ろ姿を窓から見送りながら、律子はゆっくりと手を回した。
西新の夜風が、カーテンを揺らした。




