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五万七千円の安息香(あんそくこう)  作者: 水前寺鯉太郎
シーズン3

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33/65

黄金の伝承、あるいは不揃いの一皿

八月。天神の街は、暴力的なまでの陽光に焼かれていた。

 大野律子の法律事務所の窓の外では、室外機の群れが唸りを上げ、熱せられた空気が陽炎となって揺れている。

「失礼します、先生」

 ドアを開けて入ってきた佐野を見て、律子は思わずペンを止めた。和解が成立した直後の、魂が抜けたような危うさはもうない。白のブラウスに身を包んだ佐野は、日焼けした肌に穏やかな笑みを浮かべ、真っ直ぐに律子を見据えていた。

「……佐野さん。顔色が良くなったわね」

「はい。おかげさまで、夜もぐっすり眠れるようになりました。……先生、これ。大したものではないのですが」

 差し出された小さな紙袋。中には、一枚の厚手のカードが入っていた。

「料理教室を、始めようと思うんです」

「料理教室?」

「はい。ラルクの宮脇さんが、お昼の空いている時間を貸してくださると言ってくれて。……彼女が世界一だと言ってくれたあのオムライスの味、私の中にだけ留めておくのは、なんだかもったいない気がして」

 佐野が袋から取り出したのは、手書きのレシピカードだった。『佐野家のオムライス』。卵の火加減は「弱火で三秒、余熱で五秒」といった具体的な指示から、ケチャップの銘柄、玉ねぎを刻む際の厚みまで、細かな字でびっしりと書き込まれていた。

「先生と愛さんに。あの日の感謝を込めて、私の『宝物』を共有させてください」

 律子は、そのカードの重みを感じた。単なる調理手順ではない。佐野が十年間、誰かを想い、誰かのために火を灯し続けた祈りの記録だった。

 その夜。西新のマンションのキッチンには、バターの香ばしい匂いと、愛の格闘する音が響いていた。

「……ああっ、また破けちゃった!」

 フライパンの上で、黄金色の卵が無残に裂ける。愛は佐野のレシピカードを穴が開くほど見つめ、眉間に皺を寄せていた。律子はカウンター越しに、白ワインのグラスを傾けながらその様子を眺めている。

「佐野さんの指示通りにやってるのに、なんでだろう。……これ、魔法か何かがかかってるんじゃないの?」

「魔法じゃなくて、執念でしょうね。……十年分の執念」

 三度目の挑戦。でき上がったオムライスは、佐野が作ったあの完璧なフォルムとは程遠かった。卵の表面はボコボコで、ケチャップの線も少し震えている。

「……不格好だね。ごめん、りっちゃん」

「いいわよ。冷めないうちにいただきましょう」

 律子はスプーンを入れ、一口運んだ。佐野のオムライスが「静かな祈り」の味だとしたら、愛のそれは「騒がしい試行錯誤」の味がした。少し火が通り過ぎた卵の弾力と、愛が独自に足したであろう微かな黒胡椒の刺激。

「……美味しいわ」

「本当? 佐野さんの味、再現できてないよ」

「再現なんてしなくていいのよ。……これは佐野さんの味じゃない。あなたの味がするわ。……私は、こっちの方が好きかもしれない」

 律子の言葉に、愛は一瞬呆然とした後、照れくさそうに顔を綻ばせた。

 愛はスマホを取り出し、不格好なオムライスを角度を変えて数枚撮影した。

「……何してるの?」

「証拠写真、一枚追加。……私たちが、今日もちゃんと笑って食べたっていう、動かぬ証拠」

 シャッター音が、静かな夜のキッチンに響いた。

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