久留米の雫、あるいは母の出汁
筑後の土の匂いを後にし、二人が降り立ったのは久留米の街だった。
かつて愛が飛び出した、彼女の原点。よし子の住む家は、手入れの行き届いた庭に季節の花が咲き、相変わらず静謐さを保っていた。
「……お母さん。ただいま」
「……上がりなさい。律子さんも、よくおいでくださいました」
よし子の声は、以前よりも少しだけ落ち着いていた。
通された居間のテーブルには、すでに三名分の食卓が整えられていた。筑前煮、わけぎのぬた、小鉢に盛られたおきゅうと。筑後の荒々しい男料理とは対照的な、彩り豊かな久留米の郷土料理だった。
沈黙の中で、箸の音だけが響く。
律子は、丁寧に盛り付けられた筑前煮を口にした。素材の形を崩さず、それでいて芯まで味が染み渡った、見事な家庭の味だ。
「……愛。あんた、元気でやりよるとね」
よし子が、ふと顔を上げた。その視線は、愛の胸元で光る深い緑の刺繍ブローチに向けられていた。
「うん。……毎日、ちゃんと食べてるよ。律子と一緒に」
「そう。……あの日、あんたに聞いたこと、覚えとる? 『出汁はどこのを使いよると?』って。あの時は、何も答えられんかったもんね」
愛は、隣に座る律子の気配を感じながら、ゆっくりと、けれど真っ直ぐによし子を見つめ返した。
「お母さん。……私、今はね、どこのブランドの出汁を使ってるかなんて、どうでもいいと思ってるんだ」
よし子が微かに目を見開く。律子も、愛の言葉を待った。
「私が使っているのは、重雄さんに教わった昆布の戻し方と、律子が仕事帰りに買ってきてくれる新鮮な野菜の甘み。……それから、二人で『今日はこれが美味しいね』って言い合うための、十五分の時間。……私の出汁は、その『時間』でできてるの」
よし子は黙って立ち上がり、茶箪笥の前へ向かった。しばらくして、まだ手付かずの吸い物の椀を愛の前に差し出した。
「……飲んでみて。これ、あんたのおばあちゃんから教わった、うちのやり方よ」
律子は、その一連の動作を見ていた。言葉より先に体が動く、というのはこういうことか、と思った。
愛が、その椀を口に運ぶ。
重い。けれど、どこまでも透き通った、深い味。これまで言葉にできなかったものを、すべて煮詰めたような味だった。
「……美味しい。お母さん」
「……そう。なら、よか」
よし子の瞳が、微かに潤んだ。
西新へ帰る特急の中で、愛は律子の肩に頭を預けた。バッグの中には、重雄の種ぬかと、よし子が持たせてくれた久留米の乾物が重なっている。




