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五万七千円の安息香(あんそくこう)  作者: 水前寺鯉太郎
シーズン3

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公証人の印、あるいは筑後の緑

月曜日の午前十時。天神の一角にある公証役場は、重厚な革張りの椅子と、古びた書類の匂いに満ちていた。

 律子と愛は、並んで座り、公証人が読み上げる条文を静かに聞いていた。

「……以上、本契約を公証し、公正証書を作成する」

 重い朱肉の印が、紙の上に鮮やかに押し当てられた。律子はその書類をバッグに収めると、隣で少し緊張していた愛の手に、そっと自分の手を重ねた。

「……これで、私たちは誰に後ろ指を指されることもない『家族』になったわ」

「うん。……なんだか、背筋が伸びるね、りっちゃん」

 二人はそのまま、西鉄電車に揺られて南へと向かった。車窓の景色が、ビル群から広大な筑後平野の緑へと変わっていく。律子の実家は、久留米を過ぎたさらに先、古い時間が澱のように溜まった筑後の農村地帯にあった。

 生家の玄関を開けると、懐かしい酸っぱい匂いが漂ってきた。

 キッチンの板間に、背中を丸めて座っていたのは、父・重雄だった。傍らには、何十年も使い込まれた大きなぬか樽がある。あの夜、昆布を渡した時よりも、その手はさらに節くれ立っていた。

「……遅かったな」

 重雄は、娘の顔を見ようともせず、ただひたすらに、樽の中のぬかをかき回していた。

 愛が、持参した自分の刺繍作品と、律子と一緒に選んだ和菓子を卓に置いた。

「お父さん。……これ、今の私たちの『名刺』です」

 重雄は鼻を鳴らし、立ち上がると、無造作に炊き立ての飯と、一皿の漬物を並べた。毎朝、律子の母が亡くなってからも一日も欠かさず混ぜ続けてきた、あのぬか床から揚げられたばかりの胡瓜と茄子だった。

 律子は、一粒の胡瓜を口に運んだ。

 強い塩気、その奥にある深い酸味、そして気が遠くなるような、積み重ねられた生活の旨味。

「……お父さん」

「……あ?」

「……美味しいわ。ありがとう。今まで、この味を守ってくれていて」

 重雄は一瞬、混ぜていた手を止め、汚れたタオルで顔を拭った。

「……勝手にせえ。お前たちの味は、お前たちが作ればいい。……だが、ぬか床だけはな、毎日混ぜなきゃ死ぬ。それだけは、忘れんな」

 愛が、隣でそっと涙を拭った。

 西新のマンションへ帰るカバンの中には、重雄から譲り受けた、小さな瓶に入った種ぬかが収められていた。

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