公証人の印、あるいは筑後の緑
月曜日の午前十時。天神の一角にある公証役場は、重厚な革張りの椅子と、古びた書類の匂いに満ちていた。
律子と愛は、並んで座り、公証人が読み上げる条文を静かに聞いていた。
「……以上、本契約を公証し、公正証書を作成する」
重い朱肉の印が、紙の上に鮮やかに押し当てられた。律子はその書類をバッグに収めると、隣で少し緊張していた愛の手に、そっと自分の手を重ねた。
「……これで、私たちは誰に後ろ指を指されることもない『家族』になったわ」
「うん。……なんだか、背筋が伸びるね、りっちゃん」
二人はそのまま、西鉄電車に揺られて南へと向かった。車窓の景色が、ビル群から広大な筑後平野の緑へと変わっていく。律子の実家は、久留米を過ぎたさらに先、古い時間が澱のように溜まった筑後の農村地帯にあった。
生家の玄関を開けると、懐かしい酸っぱい匂いが漂ってきた。
キッチンの板間に、背中を丸めて座っていたのは、父・重雄だった。傍らには、何十年も使い込まれた大きなぬか樽がある。あの夜、昆布を渡した時よりも、その手はさらに節くれ立っていた。
「……遅かったな」
重雄は、娘の顔を見ようともせず、ただひたすらに、樽の中のぬかをかき回していた。
愛が、持参した自分の刺繍作品と、律子と一緒に選んだ和菓子を卓に置いた。
「お父さん。……これ、今の私たちの『名刺』です」
重雄は鼻を鳴らし、立ち上がると、無造作に炊き立ての飯と、一皿の漬物を並べた。毎朝、律子の母が亡くなってからも一日も欠かさず混ぜ続けてきた、あのぬか床から揚げられたばかりの胡瓜と茄子だった。
律子は、一粒の胡瓜を口に運んだ。
強い塩気、その奥にある深い酸味、そして気が遠くなるような、積み重ねられた生活の旨味。
「……お父さん」
「……あ?」
「……美味しいわ。ありがとう。今まで、この味を守ってくれていて」
重雄は一瞬、混ぜていた手を止め、汚れたタオルで顔を拭った。
「……勝手にせえ。お前たちの味は、お前たちが作ればいい。……だが、ぬか床だけはな、毎日混ぜなきゃ死ぬ。それだけは、忘れんな」
愛が、隣でそっと涙を拭った。
西新のマンションへ帰るカバンの中には、重雄から譲り受けた、小さな瓶に入った種ぬかが収められていた。




