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その、私が最後に一目見たくてたまらなかった物は、私が念願かなって手に入れた筈だった物は、目の前の娘の胸元で重く揺れていた。
美しく整えた長い爪でその顔に深い傷を負わせたい。その悍ましい想いを笑顔の仮面を被って覆い隠す。
ちょうど近くを通りかかった給仕係りのトレーからシャンパンの入ったグラスを受け取ると、2人に見せつけるように掲げてみせた。
「久しぶりね、ビアス侯爵令息。この機会に婚約者さんも一緒にこちらでゆっくりお話しましょう。」
空いた手で会場にある立食用のテーブルを示すと、私の誘いにアシュトンが、マリーヌを自分の後ろに下がらせて守るように立ち塞がった。まるで私が虐めるのではないかと危惧するような態度だ。癇に障って表情を曇らせると、アシュトンは慌てたように言い訳を並べたてた。
「ノヴァ……いや、ウォード侯爵令嬢、マリーヌはまだ社交の場に慣れていない。だから今日は挨拶をしてすぐに帰る予定で……。」
不義理をした自覚くらいはあるらしく、どこ煮えきらない。私が彼女を虐めるというのなら、その原因を作った一人であるというのに。
長い付き合いだったというのに、私への挨拶も今回の件への謝罪もなく、ただ弁明だけを述べてマリーヌを下がらせようとする態度に、私だけではなく父も兄も表情を曇らせた。
こちらはその不義理を気にしていないふりをしているというのに、それを国すらごまかしてなかったことにしようとしている夜会で、王室の顔に泥を塗る台無しにする行為だ。
急に湧いた剣呑な空気に気づいたようで、周囲の人々も我々の様子を固唾を呑んで見守っている。
その不穏な空気を裂くように、一人の令嬢が我々の元へと近づいてきた。
コツコツと高く響くヒールの音が心地よい。
「お話中失礼?ノヴァがいるのを見かけたものだから、私もお仲間に入れて欲しくって。」
編み込みをした艷やかなウォルナットブラウンの髪にエメラルドのついた髪留めをつけ、真っ赤なドレスを身に着けた令嬢。軽く手を挙げてこちらに向かってほほ笑みを浮かべる彼女は私の親友であり、この国の五大公爵家のうちの1つ、ベルビィ公爵家の令嬢、リースだった。
リースが来たことで剣呑な空気が瓦解し、父と兄の表情が少し柔らぐ。
逆にリースの存在に、アシュトンは表情筋をひくつかせた。リースは公爵家という、自分よりも上位の貴族であり、無碍にできない存在だからだろう。
「リース、会えて嬉しいわ。」
「私もよ。ノヴァがどこにいるのか探していたの。」
リースとはこの夜会で会えると知っていたので、友人が来てくれたのは心強い。
お互いに目を合わせ、両手をお互いに合わせて夜会での出会いを素直に喜んだ。
リースは私からすぐに父の方に向き直ると、殊更丁寧にカーテシーをしてみせた。優雅で優美で、先ほどマリーヌがしたモノとは似ても似つかないそれはそれは美しいカーテシーだった。
「ウォード侯爵様、デリック様、お久しぶりです。ノヴァとは学校でよく共に過ごしていますし、家にも遊びに行かせていただいておりますけれど、お二人ともお忙しそうで中々お会いできなくて残念に思っておりました。先日お伺いした時にお土産にいただいた紅茶、ありがとうございました。父も母も大変喜んでおりました。」
「これはこれは、リース嬢。こちらこそ、いつも娘と仲良くしてくれてありがとう。紅茶くらいいつでも用意させるさ。」
「まぁ、ウォード侯爵領の紅茶は品質がよくて有名で、いつも愛飲させていただいておりますの。だからお土産でいただいた時はとても嬉しくって。」
幼馴染であるアシュトンよりも付き合いは短いとはいえ、リースとは学校に入学する前から同世代の令嬢が集まる茶会でよく会う機会も多く、気が合い、何度も互いの家を生き来することで、互いの家族も深く付き合いがあった。
父とリースの和気あいあいした雰囲気を目の当たりにして、アシュトンが少し困ったように肩をすくめた後、話が盛り上がっているのをこれ幸いとその場を辞そうとしたのを私は見逃さなかった。
「まぁ、ビアス侯爵令息、どちらに行きますの?」
私がすかさずアシュトンに声をかけると、アシュトンは悪いことをしたのがバレた子どものように、ひどく肩を震わせた。
リースも私に助け船を出すように、私に合わせてわざとらしく口元に手を当てて困ったような顔をしてみせた。
つくづく理解力が高い友人を持って幸せだと思う。
「せっかく学校の友人に久方ぶりに会えたからゆっくりお話したいのに、どちらに行かれますの?ウォード侯爵様、デリック様、ノヴァとビアス侯爵令息とその婚約者様とゆっくりお話させていただいてもよろしくって?」
「ああ、かまわないとも。デリック、我々は知り合いへのあいさつ回りにでも行くとしよう。ノヴァ、友人とゆっくりなさい。アシュトンも。」
リースと父によるダメ押しでアシュトンは逃げ場を無くし、マリーヌを連れて会場を去ることもできなくなった。
今夜の主役なので当たり前なのだが。
父が兄と連れ立ってその場を去ると、我々4人は立食のテーブルへと移動した。
今日は我がウォード侯爵家とビアス侯爵家が親密であることを示す夜会。
たった1ヶ月という期間を設けただけで、婚約は瑕疵などなく円満に解消され、ビアス侯爵家は新しい婚約者を得ているということを国までもが許していることを示す夜会。
つまりウォード侯爵家が道化とされる夜会だ。
いくら賠償はされているとはいえ、ここまで我が家がバカにされて、このまま安楽に夜会を終えさせてやるつもりなどない。
「初めまして、ビアス侯爵令息の新しい婚約者さん。公爵家の長女、リース・ベルビィよ。」
新しい婚約者さんという部分を強調して言うあたり、意地が悪い。
「初めまして、マリーヌ・ハリスと申します。」
マリーヌが震える声でそう告げてカーテシーをすると、リースはくすくすと笑いをもらした。マリーヌは、カーテシーをするためにドレスを掴む手すらも震えていた。
「そんなに緊張しなくても大丈夫よ。ビアス侯爵家とウォード侯爵家の共同事業に、わが家からも多大な融資をしているの。つまり貴方がビアス侯爵令息と婚約するということは、今後深く関わることになるってことよ。長い付き合いになることだし、よろしくね。」
リースのオーラに圧倒され、少し怯えた様子のマリーヌの肩を、アシュトンが支える。その姿を目の当たりにして、心臓がギシギシと痛みを覚えた。それでも、その痛みを私は笑顔で誤魔化した。私は今日は女優だから。
「ビアス侯爵令息……婚約者さんとは随分仲睦まじい様子ね。婚約してまだほとんど時間が経ってないとは思えないわね。」
少し言い方がきつくなってしまったと思う。
ビアス侯爵家からは、賠償金はもらえることになっているけれど、明確な謝罪はビアス侯爵からたった1枚の書状が届いただけ。アシュトンからは、一切、何の連絡ももらっていない。6年間、婚約者として過ごしていたのだから、アシュトンからも謝罪があるべきだ。
不誠実ではないかという意味合いも込めて、アシュトンに会話の矛先を向けると、アシュトンはまたもやマリーヌを庇うように、少し自分の後ろにマリーヌを下がらせた。
「ウォード侯爵令嬢、今日の夜会の趣旨を理解しているだろう?」
私に向けて苛立たしげにきつい視線を向ける。口元だけは笑顔に見えるように弧を描いて。
言外に、今は余計なことを言うなとアシュトンは言っていた。それがとても腹立たしい。
「ええ、理解しているわ。だから、随分と相性が良いようで、元婚約者として安心しただけよ?仲良いことの何が問題なの?」
やましいことがないのなら、問題などない問答の筈だ。わざとらしく小首をかしげてみせると、アシュトンは言い返すことができないようで、ぐぬぬと口元を歪ませた。
「ハリス伯爵令嬢、ビアス侯爵令息は少し頼りないところもあるけれど、学校での成績は優秀よ。私と何度も上位争いをしているの。1位のリースには2人共、負けてしまうのだけど。悔しくて、テスト前には2人で図書館にこもって勉強会を開いたわ。」
わざとマリーヌが知らない情報を聞かせる。私とアシュトンの間には、マリーヌが知らない深い絆があるのだと知らせるために。
「よくビアス侯爵令息とリースと、一緒に3人で、放課後に学校のカフェでお茶をして長話をしたわ。ね、リース?」
「ええ。私の婚約者は随分と前に学校を卒業した方だから一緒に学校のカフェでお茶なんてできないから、2人のお茶の席にお邪魔させてもらったの。流行の話をしたり、政治の話をしたり、とても有意義だったわ。」
「ほんと、楽しかったわね。これからはハリス伯爵令嬢も一緒にお茶をしましょうか?これから長い付き合いになるのだもの。」
「そうですね……機会があれば。」
もちろん、そんなお茶会なんてまっぴらごめんだ。
知らない話ばかりして、わざとマリーヌを腹立たせる。答えるマリーヌの顔は笑っているけれど、目の奥が笑っていない。
今日くらいは、これくらいの意地悪をしたってかまわないはずだ。
何を言われても、アシュトンもマリーヌも笑顔で許さざるをえない。
だって今日の夜会は、ウォード侯爵家とビアス侯爵家があくまで円満に婚約が解消して、2つの家の仲も安寧だと知らしめる会だもの。
腹立たしくても、笑顔で受け流さないといけない。私だって、我慢してしたくもない笑顔を浮かべ続けているのだから。
許されるなら、突然、婚約が解消にさせられたと言いふらしてやりたいのに。
それにしても……と改めてマリーヌを上から下まで見遣る。
私よりも少し小柄で小さな肩、私よりも少し目線が上のアシュトンと並ぶと、際立って小さく見える。
庇護欲を誘う大きなタレ目の瞳。瞳の色は赤みの強い桃色。金茶を美しく高く結いが上げ、ドレスアップした令嬢。
その姿に、何故か既視感があった。
小声でリースに尋ねる。
「あの子、夜会で会ったことあったかしら。」
「いえ、下位貴族だし家の事業も違うから、夜会で挨拶する機会はなかった筈よ。」
「そう……よね。」
マリーヌは、私たちよりも1つ年下。学校は16歳から3年間通う。1年生は共通講義だけれど、2年生になると『騎士科』『領主科』等の専門分野に講義が分かれるので校舎が分かれてしまう。だから学校でも会ったことは無い筈なのに、何故か見たことがある気がするのが不思議だった。
「ベルビィ公爵令嬢、ウォード侯爵令嬢、もういいだろうか。夜会に参加できない父に代わって、挨拶回りに行かないといけないから。」
アシュトンがマリーヌの腰に手を回して引き寄せると、引き寄せられたマリーヌは恥ずかしそうにアシュトンに向かってほほ笑み、それを見てアシュトンもほほ笑みを返した。
その光景に、心臓が握り潰された。
逃げてしまいたい。そんな姿、見たくない。苦しい苦しい苦しい。
いつから隠れて交遊をしていたの?私というものがありながら2人はいつ仲を深めたの?
たった1ヶ月とは思えない仲の良さに、ザリザリと心が削られる。
私という存在がいたにもかかわらず、絶対に、いや確実に、かなり前から交友をしていたとわかる深い関係に見えた。
夜会に参加している者も、表立っては口にできないが、明らかにビアス侯爵家側からの不貞であることは理解しているだろう。
そして、私がアシュトンに捨てられた女だということも。
心が限界ギリギリだった。心が血を流していた。
好きな相手が私ではない別の人を愛おしく見つめる姿なんて、見たくなかった。
でも私は笑ってそれを受け入れるしかない。
あれ……。
何ために、私は笑っていないといけないんだろう。




