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第5章 その言葉の手前で――触れそうで、踏み込めない距離

台所に立ちながら、何度目か分からない居心地の悪さに、そっと肩をすくめた。


……なんだろう。

さっきから、ものすごく見られている気がする。


野菜を切る手を動かしながらも、背中に張りつくような視線が気になって仕方がない。落ち着かないまま数秒耐えてみたものの、結局それ以上は無理だった。


「あの、バルス」


意を決して振り返ると、案の定、彼は椅子に腰かけたままこちらを見ていた。


「えっと、できれば本でも読んでいてくれませんか? その、料理しているところなんて見ていても面白くないと思うし……ちょっと、やりづらいというか……」


そう言って苦笑いを浮かべる。

けれど、バルスはそんな言葉に少しだけ口元をゆるめた。


「悪い。ミドリがそこにいるのが久々だと思って」


その言葉に、私はそういえば……と思う。


「あ……そう、だね」


確かに、こうして彼の家の台所に立つのはずいぶん久しぶりだった。

そう思うと少しだけ気恥ずかしくなって、誤魔化すように鍋へ視線を戻した。


「でも、あんまり期待しないでくださいね。私、そんなに料理得意ではないから」


すると、バルスはすぐに答える。


「そんなことないだろ」


「え?」


思わず振り返ると、彼はごく自然な顔で続けた。


「前に作ってくれた料理も美味しかったし、もっと自信持っていいと思うぞ」


「そうですか? それなら、良かったです」


お世辞かもしれないけれど、料理をほめられて嬉しくなり、つい口元がほころぶ。

けれど、その幸せな気分は長く続かなかった。


「いい加減、お前も俺の誕生日を気にする暇があったら、誰か相手を見つけた方がいい」


不意に落とされたその一言で、見事なくらい天国から地面へ叩き落とされた。


……はい?

人がわざわざ夕食を作りに来ているのに、なんでそんなことを言うの。

バルスと違って、私は全くモテないのに。


思えば、26年生きてきて、誰かに好かれたことなんて一度もない。

そもそもその状態で、どうやって「相手」を作れっていうのよ。

しかも、それをなんで好きな相手に言われなきゃいけないの。


完全に八つ当たりだと分かっているのに、口が先に動いた。


「そんな相手いませんから……というか、バルスこそ、いい加減早く相手を見つけたら?」


つい声が尖る。

すると、バルスがふっと苦笑した気配がした。


「まあ、俺もお前と似たようなもんだな」


……いやいや、そんなことないでしょ。

前も王宮のメイドさんに告白されたって噂、聞いたし。


心の中でだけ、こっそり突っ込む。

そんな私の内心なんて知るはずもなく、バルスは何気ない口調のまま続けた。


「何なら、ミドリが俺の伴侶になってくれるか?」


「……え?」


驚いて顔を上げると、バルスはどこか悪戯っぽい笑みを浮かべていた。


――まただ。

時々こうして、彼は楽しそうに私をからかう。

その言葉に、私がどれだけドキドキしてしまうかなんて、たぶん全く分かっていない。


普段なら「結構です」の一言で流してしまうところだ。

けれど今日は、少し仕返しをしたい気分だった。


「そうですね。最初に私を拾った責任を取って、引き取ってもらえますか?」


言った瞬間、しまったと思った。

冗談のつもりなのに、口にした途端に恥ずかしさが押し寄せてくる。


まともに顔が見られず、慌てて視線を鍋のほうへ戻す。


なのに。


返事がない。


……あれ?

おかしい。


恐る恐る顔を上げると、バルスはさっきまでと違う顔でこちらを見ていた。


食い入るように、まっすぐに。


その視線とぶつかった瞬間、体が固まる。

獣に見据えられたみたいだった。


そんなの自意識過剰だと分かっているのに、そうとしか思えないくらい、彼の目が熱を帯びて見えた。


じわじわと頬が熱くなる。


バルスが、引き寄せられるみたいに一歩、こちらへ近づいた。


そのときだった。


彼の耳元へ、淡い青い光がふわりと寄ってくる。

伝言光だ。


青白い光が揺れながら、かすかに明滅する。


バルスは足を止めると、すぐにそちらへ意識を向けた。


私は混乱した頭のまま、それをぼんやり見つめる。


何かあったのだろうか。


そう思っているうちに、バルスの表情が少しずつ引き締まっていくのが分かった。

さっきまで向けられていた熱は消え、代わりに仕事の気配が差し込んでくる。


やがて伝言が終わったのか、青い光はふっとほどけるように消えた。


バルスは小さく息を吐き、どこか申し訳なさそうに私を見る。


「せっかく夕食を作ってもらったが、仕事が入った。すまないな……」


もう、その顔は完全に仕事のときのものだった。


慌てて首を振る。


「いいよ。何かあったのでしょ? 戻ってこられそうですか? だったら、これ冷蔵室に入れておくから」


けれど、バルスはわずかに首を横に振った。


「いや、無理そうだな。たぶん、しばらくは家には帰れないと思う」


「そう、ですか……」


胸の奥がきゅっと縮む。

久しぶりに、そばに長くいられるはずだったのに。


それでも、困らせたくなくて、なんとか笑みを浮かべる。


「あの……気をつけてくださいね」


そう言うのが精いっぱいだった。


バルスはほんの少しだけ表情をやわらげる。


「ああ」


短い返事のあと、出かける準備を始めた。


その姿を、なんとなく目で追ってしまう。

そして――あれは一体何だったんだろうと思う。


さっきの視線が、頭の中から離れてくれない。

冗談みたいに言われた言葉も。

そのあと、何か言いかけた気配も。


全部、途中で途切れたまま、引っかかっている。


支度が終わり、バルスは玄関へ向かおうとして、ふと足を止めた。

振り返る。


その視線に、また胸が跳ねる。


「……ミドリ」


呼ばれて、思わず顔を上げる。


次に何を言われるのか分からないのに、なぜか分かってしまいそうで。

視線が、うまく定まらない。


その沈黙が、やけに長く感じられて。

聞きたいのに、聞くのが怖い。


それでも、どこかで、期待してしまう。


もし――

その続きを、聞いてしまったら。


今までみたいに、

何もなかったふりなんて、できなくなる。

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