第一部 (八)
寮の厠近く、コの字の奥側の棟に、昼間はいつも障子を開けている四畳半の部屋がある。柱に一輪挿しを飾るその小部屋が月水の時の籠り部屋だった。
農漁村には月水の時に女達が籠って内職をする小屋があるというのを真乃は思い出したが、この籠り部屋に血を忌むような意味は無い。女達が心安く過ごすための部屋だ。農漁村の小屋も当初は純粋にそうだったのかもしれない。
翌日からつねが籠り、その翌日にはるいも籠った。
辛い月水の間を少しでも明るく過ごそうとしているのか、部屋からは香の匂いがこぼれ、つねとるいの話し声や笑い声が時々聞こえてきた。
小部屋へはかよが三度の食事の他に、日に何度かお茶に団子や真桑瓜といった甘味のある食べ物を運んでいる。そのまま話し込んでいることも多い。
つねの母親のみねも時々様子を見にやって来て、かよが食事の支度をするのを手伝っていた。
みねの他にも長屋の女房連を台所で何人か真乃は見かけていたし、長屋に住む振売りの男たちも時々顔を見せる。残り物を安く売りに来るのだ。
るいが最初に刺客に襲われた時に悲鳴を聞いた長屋の住人が駆けつけて難を逃れたというのは、日頃のこうしたつき合いからだったのだ。るいには味方が大勢いる。
真乃は自分がいない間、最悪の場合には彼らを頼る策を取ろうと考え始めていた。一方で、るいの命を狙う黒幕と松三郎殺害の下手人探索のために、ある男の手を借りようと決めた。
るいが籠り始めて三日目の朝、八代に昼まで残る承諾を得た後で、真乃はかよに告げた。
「私はこれから八丁堀へ行く。八代殿が長屋に控えているし、そうそう昼間にこの屋を襲ってくるとは思わぬが、万が一のことがあるから油断せぬようにな。二刻内には戻る」
かよは少し心配そうな顔になったが、余計なことは言わずに真乃を見送った。
真乃は八丁堀に着くと青井屋敷の冠木門前を通り過ぎ、隣家の簡素な木戸門を叩いた。そこが乳兄弟でもある幼馴染み、榊源二郎の家だ。
長く榊家に奉公している老婆は喜んで真乃を迎え入れたが、真乃は源二郎と万蔵への伝言を頼むとすぐにまた木戸門を出た。
真乃が探索を手伝わせようと思ったのは、源二郎の押し掛け御用聞きの万蔵だ。源二郎はまだ北町の平同心で、御用聞きを使うような役目についていないから迷惑だと断ったのに、しつこくついて回っている、
従って、たいていは暇な万蔵だが、時々源二郎が探索に加わることがあり、その際には張り切って御用聞きの任についているから、状況を確かめないわけにいかないのだった。
幸い、今、源二郎は探索には関わっていないという。
一日に一度は榊家に顔を見せるというから、遅くとも明日には、万蔵が大貫屋の寮に現れるだろう。
ついでに青井の屋敷に顔を出そうかと思った真乃だったが、榊家を出て青井家の冠木門前に立った途端、中から叔母、真佐江のキンキン声が聞こえてきた。父親の名前にある「真」と母親の芳乃の「乃」を組み合わせた「真乃」の読みが「まの」ではなく「しんの」になった由縁の人物だ。
よくいえば面倒見が良いのだが、真右衛門と真乃父娘にとっては、なにかと余計な世話を焼いてくる人物である。
そう、母親が「まの」と読ませるつもりだったのに、「真」を「ま」と読むのはダメだと父親が頑として首を縦にふらなかった理由とは、口煩い妹のようにならないようにという願いからだったのだ。
それを知ったとき、真乃は誇張なく脱力した。
門の外まで聞こえるとは、叔母は一体どんな大声を出しているのか。真乃は驚いた。
「兄上は真乃を甘やかし過ぎでございます。あの年ではもう初婚の相手は望めませぬ。ですが、後添いならばなんとか……兄上!兄上!」
兄上と呼ぶ声が小さくなっていった。
のらりくらり、屋敷内をあちこち歩き回って叔母から逃げ続ける父親の姿が真乃の頭に浮かんだ。
それが「北の青井」と悪党に恐れられ、良民達に敬われた男の隠居後の姿である。
真乃は青井屋敷を素通りして北へ向かった。
「真さんがあっしに用があるたぁ、嬉しいじゃねぇですか」
万蔵は伝言を頼んだその日の夕刻に大貫屋の寮に現れると、真乃の姿を見るなりそう言った。それから濡れ縁に腰かけ、かよが出した茶を一息に飲み干した。伝言を聞いてすっ飛んで来たらしい。
自称「今年で二十歳くれぇ」の万蔵は、見た目は敏捷そうな若者であるが、少し抜けているところがある。そこは気になるものの、しぶとく粘り強いところもあるから、使いようによってはかなりの働きを見せる。それが真乃の万蔵評だ。
「喜んでお手伝いいたしやすよ。……で、何をすりゃあいいんで?それにしても真さんが大貫屋のお妾さんの住み込み用心棒たぁ、大貫屋の旦那は心配にならねぇんですかね」
万蔵は辺りを見回してニヤついた。
源二郎が真乃を「しんの字」と呼ぶから万蔵の真乃の呼び名は「しんさん」である。そこまではいいとして、万蔵は真乃を男だと思い込んでいる。
真乃も自分から女だというのが面倒くさくて、万蔵の思い込みは出会ってから二年半継続していた。
たいていは髭の剃り痕がないことや線の細さでそのうち気付くから、こうまで気がつかないのは大変珍しい。
「柳原での若衆殺しのことは聞いているだろう?片岡さんが掛りだ」
「へぇ、聞いてやす。真さんと張り合えるくれぇの美貌の若衆だったそうでやすね。なんとももったいねぇ。あ、もちろん男振りは真さんの方が上でやすよ。背丈はあるし、キリッとしててね」
「その麗しの若衆が実はここにいるるい殿の弟分でな。しかも殺された理由が自身が狙われる理由と同じかもしれないのだ」
「ええっ?それは大事じゃねぇですか。下手人はかなり遣えるお武家だって聞いてやすぜ」
「そう、大事になりつつある。るい殿からは若衆の下手人探しを頼まれたしな。だが私は用心棒稼業があるから、迂闊に動けない。そこでお前の出番だ」
万蔵は嬉しそうに頷いた。
「若衆殺しの探索でやすね」
「それと明日以降は片岡さんの探索の状況を私に知らせること、だ」
「片岡様が掛りってことは嘉兵衛親分が動いてやすね」
「今朝、番屋で片岡さんに聞いた話では、当夜の関わりがありそうな目撃談も出てこず、若衆を身請けした御仁もいまだにわからないらしい。……が、そっちは嘉兵衛親分に任せて、お前には芝の『叶屋』という料理茶屋に探りを入れてもらいたいのだ」
「芝の叶屋ですかい」
「知ってるかい?」
「名前だけは聞いたことありやす。庭が綺麗だって有名でやすよ」
「そこで去年長月(陰暦の9月)の二十一日に会合した商人と武家が誰か突き止めてほしいのだ。正面からでは埒があかない探索だ。お前の知恵と手管を注ぎ込んで突き止めろ」
「手管って……」
万蔵は照れたような笑いを浮かべた。
「その連中が鍵なんでやすね?」
「鍵どころか、大元かもしれない。それ故、慎重にやるんだぞ。でないとお前の命も危ない」
へらへらしていた万蔵の顔色が変わった。
「へい。目立たねぇようにやりやす。任せてください」
やる気は変わらなかったようだ。
万蔵が去った後にるいが籠り部屋から顔だけ覗かせた。低い顔の位置からして、四つん這いになっているらしい。
「大丈夫なんですか?威勢だけは良かったですけども」
「見た目よりはしっかりしているよ」
「青井様を男の方と思ってるような感じでしたけど、まさかそんなことはありませんよね」
「いや、その通りだ。私を男だと思い込んでいる」
るいが口を開けたまま暫く動かなかった。
「大丈夫じゃないじゃありませんか!最初はわからなくても少し見てたら、たいていわかることですよ!」
「出会いが出会いだったからな」
「どんな出会いだったのですか?」
「憚りへ行かなくて良いのか?その体勢は楽ではないと思うが……」
「お気遣いありがとう存じます。まだ大丈夫です。一体どんな出会いをしたら、青井様をどこまでも男だと思い込むんですの?」
「あいつの目の前で源二郎と二人で破落戸の十人ばかりを倒しただけだが、源二郎が私を『しんの字』と呼ぶし、男相手と同じような口をきくから、まさかそんな対等に言い合い、喧嘩をやらかす幼馴染みが女と思わなかったのだろう」
「青井様にはそんな幼馴染みの方が……その時はそうなるでしょうけど……そんな荒っぽい出会いがあったのはいつのお話ですの?」
「二年半ほど前になる」
「二年半も前ですか!二年半もの間にはいつ見ても髭が生えてないし、剃り痕もないなとか、男にしては華奢だなとか思うのが当たり前じゃございません?相手が男だと思ったら、身体に触って気づくとか……」
「武家にはそうそう触れてこぬよ」
「あ、そうですわね。でも……」
「髭の剃りあとも、男はそれほど気にしないのかもしれない」
「そうですね。女の方が気にするのかもしれませんわね、でも……」
るいはどうにも納得がいかないらしい。
「源二郎もその点であいつに手札を渡す気にならないらしいから、るい殿の疑問はよくわかる。だがあれで本当に結構役に立つのだよ。私を信じてもらいたい」
「もちろん青井様のご判断を信じておりますし、お任せしますけども……その、青井様の幼馴染みの源二郎様というのはどのようなお方ですの?」
るいの興味は万蔵から源二郎に移ったらしい。
「北町の同心だ。今は平だが、もうすぐ何かの御役につくだろう」
「御町の旦那ですか。でも与力のお嬢様と同心の旦那が幼馴染みって、意外と聞きませんわよ」
「そもそもは祖父同士が上役と部下ながら妙に馬があったことに始まる三代に渡る縁だ。そのうえ、源二郎とは三月違いの同い年生まれでな」
単なる幼馴染みではなく、乳兄弟であり、剣術の修行も一緒だったことを真乃は手短に説明した。
「そんなに濃い仲なのですか!」
「濃い仲」という言葉は真乃に違和感がありすぎた。勘違いしてないかと言おうとしたら、
「あ~駄目!いけない!」
るいはそう叫んで頭を引っ込めた。と思ったら、勢いよく障子を開けて見事な高速摺り足小走りで濡れ縁から厠へ駆け込んだ。
それから十日近く探索が捗らないまま過ぎた。
片岡が岡っ引きに指図して色々探っても、何故か松三郎を請け出した人物が見えてこない。
請け出す話は数人の商人を経由して近江屋に辿り着いたというのだが、蝋燭問屋の近江屋は「連雀町の丹波屋さんから文で頼まれた」と言い、その菓子問屋の丹波屋は佐久間町の醤油酢問屋、内田屋清兵衛から文を貰ったと言い、内田屋は金龍寺門前の薬種問屋、伊勢屋九兵衛から文を貰ったといい、伊勢屋は近江屋から文を貰ったと、近江屋に戻ってしまったのだ。
ならば、近江屋が嘘をついているのかと、しつこく質しても丹波屋さんから文を貰ったの一点張りで埒があかない。これが証だと丹波屋の文を出してくるし、丹波屋も自分が書いたと認めた。
では伊勢屋が嘘をついているのかと、こちらを詰問したが、これまた証の文を出してきて、嘘はついていないと言い張る。そこでまた近江屋にこの文はどうしたと質せば、憶えはないという。
誰かが嘘をついているのは間違いないのに、証しを掴めずにいた。
また左頬に傷のある侍が関わっていそうだと、目付方に協力を要請したそうだが、何の返答もない。彼らにしたら、雲をつかむような話だ。予想通りである。
一方、万蔵は十日間をこの半年くらいの間に叶屋を辞めた奉公人探しに費やした。勤めている間は口の固い茶屋の奉公人だが、辞めた後なら薬の効かせようで口を割るだろうという真乃の入れ知恵からだ。
万蔵が近所にも聞き込んで得た情報では、この半年の間に叶屋を辞めた奉公人は、季替わりがあったこともあり、少なくとも五人いた。
万蔵はその五人に一人ずつ会って質していった。
どの元奉公人も予想したより口が固かったが、口が固いだけでなく、そもそも問題の商人と武家のことは店のごく一部の人間しか知らない秘密のようだった。それらしい人物がいたことは覚えていても、どこの誰かは知らないという答えが返ってきたのだ。
万蔵は持ち前の粘りで一度会った元奉公人に再度会い、漸く聞き出したのは、叶屋で見かけた頬に傷のある侍を最近町地で見かけたという話だった。
万蔵は内心小躍りして、季替わりで芝の叶屋を辞めて今は富ケ岡八幡門前の料理茶屋に勤めるみさという四十手前の女に仔細を尋ねた。叶屋に不満があったのではなく、家族の都合で深川の長屋へ引っ越したのがみさの勤め替えの理由だった。
「十日くらい前でしたかね。今、勤めているお店の前を通ったんですよ」
「連れはおありでしたかい?」
「いいえ、お一人でした。それが前にお見かけした時より随分お痩せになっていて、着ている物も薄汚れた感じで。初めは別人かと思ったんですけど、頬の傷といい、顔立ちといい、あんなに似たお方がこの世に二人いるわけないよねと……」
「どんな様子でやした?」
「とてもお疲れのようでした。歩き方も以前の颯爽としたお侍らしい感じではなく、ふわりふわりとした……あ、心ここにあらず。そんな感じで」
みさの証言に基づき、万蔵は富ケ岡八幡の門前で聞き込みを始めた。聞き込みを始めると、すぐに何人かから目撃談が出た。左頬に傷のある痩せた侍は人々の目を引くものがあったようだ。見かけ始めたのは一月ほど前らしい。
「思い詰めたような、ちょっと気味の悪さがありましたからね」
鮨の屋台の親父の話だ。どこの誰とわかっている者はいなかった。




