第一部 (七)
るいはきょとんとした顔つきのまま更に口をぽかんと開けた。
「ま、ま、まさか……まさか……茶屋ですれ違っただけですよ?」
「向こうはそう思っておらぬのだ。お主達はそ奴らのいた部屋のすぐ近くで喋っていたのではないか?」
るいは眉間に皺を寄せた。
「そうですね。でも大して長くなかったし、障子の真ん前にいたわけでもないし、松三郎もあたしも自分たちのお喋りに夢中で周りのことなんか気にしてなかったし……」
「そ奴らは何か、ひとに聞かれては困ることを話していたのだろう」
「ど、どんな?」
「それがわかれば解決したようなものだ。本当に何も聞こえなかったのか?」
「ですから、二人で楽しくお喋りしてたんです。何も聞こえてこなかったし、あの人達があのお座敷にいることも知りませんでしたよ!」
るいは後悔と不満が混ざったような顔だった。
「ま、まさか、松三郎もそれで、あの人たちに殺されたと?」
るいの顔色が真っ青に変わった。
「松三郎殿についてはまだなんとも言えぬ。そうかもしれないし、違うかもしれない。だがそなたが狙われる理由はまず間違いなく今の件だろう」
「一年近くも前のことなのに?どうして今頃になって?」
「そこが胆であり、それが解れば、そなたの命を狙う連中もわかる。その時以外に相手がそなたを見てぎょっとした、或いは驚いていたようなことはないのであろう?」
るいは眉間に皺を寄せた。眉間に皺が寄るのは真剣に考える時の癖らしい。
「その時以外には覚えがありませんわ」
「もしもその連中でなければ、大貫屋絡みになる」
「まさか!まさか、そんなことは……」
るいは大きく首を横に振った。
「お主もそう思うであろう。相模屋も大貫屋の主人が依頼してきたときに思い当たることが本当にないのか、忌憚なく尋ねたらしいし、私もこの話を聞いてすぐに大貫屋について少し調べた。大貫屋自身かその子息を殺そうとするならともかく、妾を殺しても大貫屋に与える損害は大きくない。そういうことをしでかしそうな人物も見当たらない。大貫屋の主がここに入り浸っているわけではないからな。もちろん、全くないとは言いきれないが……」
「旦那様を苦しめるなら、あたしよりお子様方ですよ。おなつ様だって、あたしを殺そうなんて……そんなことするお方だなんて、とても……」
「おなつ様」というのが、大貫屋忠兵衛の内儀だ。
「その叶屋で見た連中のこと、もう少し覚えておらぬか?顔つきや背格好など特徴を……」
るいは先ほどより更に深い皺を眉間に現した。
「……あ!頭巾を被ったお武家様のお供のお一人は顔に傷痕がありました。この辺りに」
るいは自分の左頬を指差した。
「体格は?目は大きかったのか、細かったのか?顔に傷があるだけではなかなか見つけられぬ。何か他の特徴も思い出してくれ」
「目は……わりと大きかったと思います。体格は……青井様と同じくらいかしら……少し低かったかもしれません」
真乃の背丈はこの時代には男でも数少ない高さだから、少し低いくらいならば体格は良い方になる。
「綺麗に月代を剃っていたのだな?」
「ええ、総髪の方はいらっしゃいませんでした。頭巾を被っていたお方の髪形はもちろんわかりませんけど」
「頭巾を被った武家と商家の主らしい男の年齢や体格といった特徴は?」
るいは長い間眉間に皺を寄せて考えていた。熱々で出した茶が冷めてしまうくらいの長さだった。
「頭巾を被ったお武家様は五十手前くらいかしら。目しか見えませんでしたけど、大貫屋の旦那様より少し上じゃないかと思います。高そうなお着物をお召しになっていて……背丈はそれほど大きくはなかったと思います。商家の旦那さん風より少し高かったくらいで。お二人はお年も同じくらいに見えました」
「着物に紋はなかったか?」
るいは今度はすぐに首を横に振った。
「紋は誰のお着物にもついていませんでした。屋号のようなものも何も。考えてみたらおかしなこと、ですよね?」
「私用にしても、どこの誰とわかりそうなものが供を含めて何もなかったというのは、只ならぬ意図を感じる。この前の刺客の質からもかなりの金か、裏の世界に力のある人物、或いはそうした人物に依頼できる者だ。その連中の用心具合と符号する。金や権力を握っている連中ということだ。繰り返して済まぬが、他に見知らぬ相手の顔色が変わったようなことはなかったのであろう?」
いつの間にかるいの手が震えていた。
「松三郎は、松三郎は知りもしないことを知っていると思われて、殺されたかもしれないと仰るのですか?誤解で殺されたかもしれないのですか?」
「先程も申したように、蔭間として勤めていた間に厄介なことに捲き込まれてしまったのかもしれぬ。松三郎殿のことは請け出した人物を突き止めることが第一だろうな」
「もしも松三郎が何か厄介なことを耳にしてしまっていたなら、きっとあたしに打ち明けてたと思います。詳しいことは言わずとも、匂わせたと思うんです。それに、もしも十月前のあのことであたしが襲われたなら、松三郎が襲われないわけないじゃないですか!」
言い終えた頃には肩までわなわなと震わせていたるいだった。
真乃は声を一段と低くした。
「私の本音を言えば、松三郎を斬った下手人、或いはその雇い主……は、そなたを襲ってきた連中の雇い主と同じだろうと思う」
るいの目に怒りの炎が灯った。
「酷い……酷すぎる……」
真乃にはかける言葉が浮かばなかった。いたたまれない気持ちで庭に目を向けた。
知りもしないことで殺されるなどあってはならないことである。そして相手方の用心の度合いが大きければ大きいほど、その企ても大きいということだ。
一体何者がどんな企てをしていたのか。
武家と商人の組み合わせ自体は珍しくもなんともない。双方の思惑であちこちで様々な綱引きが行われている。
しかし昨秋以降に気になる噂は真乃の耳に入っていなかった。
視線を感じて目を戻すと、るいが思い詰めた眼差しで真乃を見ていた。
真乃が顔を向けたところで、るいは畳に額がつくくらい頭を下げた。
「青井様、お願いでございます。松三郎の仇を取ってくださいませ!どうして殺されたのか謎を解き、下手人を捉えてお仕置きしてくださいませ!」
言葉がほとばしった。
「私はそなたの用心棒として雇われているのだぞ。その仕事を放っておいて、松三郎殿の仇を探せと申すのか?」
るいがすっと頭をあげた。その目は怒りだけでなく強い意思を感じさせた。
「青井様はあたくしの命を狙っている連中と松三郎を斬った下手人とは関わりがあると思ってらっしゃるのでしょう?松三郎の仇を探し出せば、あたくしの用心棒もしなくてよくなるのではございませんか?」
「相手が違うこともありうる。それに仇探しをしていてはそなたの命を守りきれぬ。二兎追うものは……だ。なにより町方も動いている」
るいは真乃の言葉に下を向きかけたが、すぐにまた顔をあげた。
「お役人は当てになりませんわ。あの方達が松三郎のような子達のことをどう思っているか、あたくしが知らないとでも思っているのですか。前にもあったのですよ。請け出された子が殺されたことが。その時、結局下手人は見つからず。お役人や御用聞きの方にお調べについてお聞きしたら、いつものらりくらりとかわされました。お役人に本気で下手人を探す気なぞあるものですか!」
町方与力の娘として、真乃には耳の痛い話だった。
一番の問題は役人の数が足りないことだ。そのために同心は岡っ引きを使い、町火消や自身番など、色々町民に自衛させてもいるが、そんな町の自衛を潜り抜けて起こる犯罪は、それだけ下手人を捕まえにくいということなのだ。
そのうえ寺社や武家地は町奉行の支配外である。大名や旗本の家臣、陪臣は町奉行所の管轄だが、主人である大名や幕臣が御家の恥と秘匿することも多く、結局手が出せないことも少なくない。
「番屋にいたあの片岡孫助という同心は、殺されたのが誰であろうと、下手人探しに取り組む姿勢は変わらんよ。昔から人となりを知る私が請け合う。そなたの命を狙う連中はかなりの大物だ。松三郎殿の仇探しでそなたの警固を疎かにすることはできぬ」
るいの目にまた涙が溢れた。その目で松三郎を見る。
「この子の仇が取れるなら、あたくしは命も惜しくありません」
るいは松三郎の死顔を見つめたまま、そう言った。二人が三年の間に築いた絆は、姉弟や親子の絆を越えたらしい。
「頭が痛くなってきたわ。こんな時に……」
るいはこめかみを指で押えた。
「無理もない。少し休むが良い。私が番をしておく」
るいは眉間に皺を寄せたまま、真乃を睨んだ。
「そんなことできません。青井様にお任せするなんて。それに、青井様はいつお休みになるのですか?」
「明日の朝、楠田殿か八代殿に昼近くまで残ってもらうよう頼んである。そなたは今しか休めまい。そなたが倒れては松三郎殿の供養ができぬぞ」
るいは眉間に皺が入ったしかめ面でまた松三郎の死顔に向いた。
「明日はおっ母さんの月命日よ。これからは松三郎、おっ母さんと二日続けて月命日だわ……」
真乃と違って母親と仲の良かったるいは、母親の位牌を寝室に置き、その前にはいつも何かが供えられている。
るいによると、娘が九つの時に夫を亡くしたるいの母は、女手一つで娘を育てあげた。悪党に目をつけられることもあったが、世間の荒波から娘を守り抜いた母親だった。
その時、微かに足音がした。そうして庭に人影が現れた。
「あのぉ……ここからお祈りさせてもらいます」
おずおずと現れたのは色褪せた膝下までしか丈のない縞の着物を着た十二才くらいの少女だった。
るいは少女の出現に一瞬はぽかんとしたが、すぐに優しい笑顔を浮かべた。
「ああ、そうね。もうそんな頃ね。あたしもたぶん明後日には籠るから、待っててね。そこからと言わずに、ここへあがって線香を上げてちょうだい」
るいは立ち上がると濡れ縁へ行き、遠慮する少女を自らの手を添えて濡れ縁へあげ、座敷へと連れてきた。
初見では年が十二くらいに見えたが、もう少し上かもしれない。手も足も棒きれのように細い。
少女が松三郎の亡骸に見惚れている間、るいが小声で何か囁いていた。るいを振り返った少女の目には涙が溢れていた。
「おるいさん……」
名を呼んだだけで、少女はるいに抱きついた。るいを慰める言葉が浮かばなかったのだろう。
るいは「ありがとう。あなたも優しい子ね」と、少女の背を優しく撫でた。二人の仲の良さと互いへの信頼が感じられた光景だった。
その後、少女は震える手で線香をあげ、長く手を合わせていた。
「青井様にご紹介しないとね」
るいは少女が手をほどいたところで、真乃に向いた。
「この子はそこの長屋に住むおつねちゃんです。年は十四。おつねちゃん、こちらのお方は青井真之助様。あたしの用心棒をしてくださっているの」
るいの用心棒のことは惣兵衛長屋の住人で知らない者はいないだろう。
るいの言葉を受け、少女は深く頭を下げて自己紹介した。
「つねと申します。おるいさんには何かと助けていただいております。おるいさんのこと、どうかお守りくださいますようお願いいたします」
真乃はまさか挨拶で長屋の娘からるいの用心棒を励めと言われるとは思わず、まじまじとつねを見つめ、それからるいの顔に視線を移した。
「この子は五人兄弟の二番目なんですけど、上も下も男の子ばかりで、女のきょうだいがいないんです。それで、半年前にめでたく大人のしるしの『お客』があった時に居場所がないと辛そうにしている、どうしたものかと、この子のおっ母さん、おみねさんがあたしに相談してきたから、ここで過ごせばいいと引き受けたんです。それ以来、『お客』が来たら、うちの一間で過ごすようになっていますのよ」
「お客」とは、女達が使う月水(生理)の隠語である。
顔を上げたつねの顔は赤かった。
「青井様も女の方だから、恥ずかしがることはないわよ」
つねはるいの言葉に目を丸くした。
「毎月やってくる度に、私も嫌になっている。るい殿のことは私が守る。ここにいる間はそなたのことも守る。安心なさい」
つねの顔色が一段と赤くなった。
「ここでこんな話するのもなんですけど」
小声でるいが尋ねてきた。
「青井様はいつ頃に?あたくしは明後日くらいからですの」
「月水が始まったら用心棒はできなくなると心配しているのであろう。その点は相模屋もよく承知している。この前終わったばかりだから、当分問題はない」
そう、ちょうど終わって二日後にこの話がきたから、引き受けたのだ。もしもこの話が十日早ければ、少なくともすぐに引き受けてはいなかった。
――女とはなんと面倒な。
真乃の率直な思いである。
初潮を迎えてからは長い間、男に生まれた兄の静馬や源二郎が羨ましくて仕方がなかった。
毎日髭を剃るなど、数日動けなくなる月水に比べたらなんと容易いことか。
今も羨ましくないわけではないが、文句を言っても仕方がないという諦めだ。
この時代、経血を吸収して長く留めておけるような素材がなく、紙(楮や雁皮が原料の和紙)か布を何枚か重ねてこよりで簣褌状にしてあてがうしかなかった。遊女はもう少し違う対処もしたようだが、大した時間もたないのは同じだ。
そのため経血量の多い間は頻繁に取り換える必要があり、あまり動き回れない。
腹痛や頭痛に倦怠感もあるから、たいていは寝て暮らし、起きたら厠へ直行する。モタモタしていると着物を汚すことになってしまう。
若い女達の腰巻きに緋縮緬が多いのは、色の好みもさることながら、一番には経血が漏れても目立たないからだ。
個人差はあるものの、三日目か四日目には経血が少量になり体調も上向き、少しずつ活動を再開できるが、完全に終わるまでには七日近くかかる。
更には月水が始まる数日前から苛々しやすくなったり頭痛がしたりと、体調にも気分にも不快な前触れがあるのだから、結局、一月三十日のうち十日くらいは月水で辛い思いをしているのだ。
真乃からしたらなんともやるせない。どんなに稽古を積んでも、日頃は負けしらずでも、月水の間は思うように動けなくなるのだ。
大事な子孫は女しか産めず、家を守るという大事を任される一方で、何かと女が軽んじられ、貶められているのは、出血を穢れと考えるだけでなく、月水の間あまり動けなくなるせいもあるのだろうと真乃は思う。
しかも武家に至っては女が産むことを「仮腹」とする考え方まである。
女にとってお産は命懸けだ。やはりどうにもやるせない。
「問題はそなたの命を狙う連中がいつまでも諦めず、二十日以内に黒幕を見つけられなかった場合だが……」
るいがまた眉間に皺を寄せた。
「それまでには斉藤殿が復帰できるだろうから、屋内は斉藤殿、私の代わりとして、長屋に控える人数を増やすことを相模屋に提案するつもりだ」
「その間、青井様はお屋敷にお帰りになるということですね?」
「用心棒として役に立たないのならここにいるわけにいかぬ」
「そんな……お屋敷の方が勝手がわかって良いでしょうけど、もしも……いえ、余計なことですわね」




