第一部 (九)
事態が大きく動いたのは、万蔵が富ケ岡八幡での聞き込みを始めて三日目のことだった。
左頬に傷のある男の水死体が佃島の漁師の網に引っかかったのだ。
この頃には水死体があまりに多く、海で見つけた場合にはそのまま放置されることが多かったのだが、網に引っかかったのを簡単にはずせなかったため、魚と共に陸揚げされた。
更にはその船主が陸揚げした以上はと番屋に届け出て、番屋に詰めていた町役人が町方が頬に傷のある侍を探していることを覚えていたという幸運が重なっての発覚だった。
万蔵が息急ききって知らせた報に、真乃はるいを伴い、すぐに深川相川町の番屋に駆けつけた。
死体は番屋の外に置かれていた。
るいは鼻と口を袖で覆って臭気と吐気を堪えながら、男の顔を暫く見つめた。死体はそもそも不気味なものだが、死後数日たった水死体は見た目の変わりようが激し過ぎる。
「頬の傷痕のようなものは、叶屋で見たお侍の傷と同じように思いますけど……同じお人かはわかりません……」
「珍しい着物じゃありやせんが、叶屋の元奉公人が言ってた着物を着てやすね。背丈も、まぁ大体おんなじでやすよ」
万蔵がるいの証言を補強した形になった。
番屋には本所見廻りの深川掛かり同心、安藤茂兵衛と柳原辺りが掛かりの定町廻り、片岡がいた。
この日、片岡はるいの姿を見るなり、呆けた顔になって暫く見惚れていた。白粉を薄くはいて眉を整え、紅も差していたから、この前の化粧っけもなく、取り乱した姿とは一変していたのだろう。真乃の挨拶に我に返ると、確認するのが水死体であることをるいに詫びてきた。
片岡は死体のあまりの醜い有り様にるいが気を失うのではないかと心配したようで、いつでも支えられるよう、すぐ後ろに立って確認を見守っていた。この前と違って随分親切である。
片岡は五年前に御新造をお産で亡くし、その後はずっと独り身でいる。難産の末に妻と子を同時に失うという悲劇だった。
後添いの話はいくつも持ち込まれてきたが、断り続けているそうだ。
片岡は最初から暗い面持ちではあったが、るいと万蔵の言葉に一段と暗い表情になった。
「これで謎の武家と商人を突き止める手懸りが消えましたな」
「そうでしょうか」
真乃の落ち着いた声に片岡と安藤は一斉に驚いた顔を向けてきた。
「この殺しで、連中に何かが起こっていることがはっきりしましたよ。動きがこれだけで収まるとも思えない。尻尾を捕まえられる見込みが出てきたと私は思います」
「事故ではなく殺しだと申されるのですな」
「供侍をしていて泳ぎの下手な者など、まずおりません。おそらく薬か深酒で眠らされたか、当て身で気を失ったところで無理やり水死させられたのだと思います。殺された場所も海ではないかもしれません。殺された理由も、松三郎殿と同じかもしれない」
「口封じ、ですか……」
「十月前には供の中でも特に信頼されて大事な密談に隣席していた武士が一月ほど前に浪人になり、挙げ句にこのような姿を人目に曝す。只ならぬ物を感じませんか?」
「ですが、真面目で一途な男ほどつまらぬことで身を持ち崩したりするものですぞ。この男も遊女にのぼせて勤めを怠った故の放逐だったのかもしれない」
安藤はからりとした口調で意見を述べた。
「ともかくこの者がどこの誰か、住んでいた場所と最後にこの者がどこで見かけられたかを突き止めないといけませんな。勘六!」
「へい」と初老の男が後ろに若い男を従えて安藤の傍へ走りよった。
安藤がなにやら耳打ちし、勘六は何度か頷いた。
深川掛かりになったのは二年ほど前だが、安藤はこれまでに本所、深川を担当する本所見廻り方の同心として二十年近く、町方の同心としては三十年も町地に起こった揉め事に対処してきた。やるべきことは心得ている。
勘六が若い下っ引きを従えて番屋から遠ざかるのを真乃は黙って見送った。
先ほど安藤は万蔵からこれまで聞き込んだ富ケ岡八幡辺りでの頬に傷のある侍の目撃談を細かく聞き出していた。それを元に勘六に指示を出したことだろう。
更なる聞き込みは長年町方の御用聞きとして働き、この辺りを熟知している勘六に任せるのが一番である。
何かわかったことがあれば、互いにすぐに情報を共有することを約束し、真乃はるいと万蔵を連れて本郷への帰路についた。
片岡が別れ際にるいに何か言おうとして止めたのが真乃の視界に入ったが、るいの方はそんな片岡の素振りに全く気づかず、用が済んだら長居無用と三人のうちで真っ先に踵を返していた。
「嫌だ。まだあの臭いがする」
鎌倉河岸まで舟で戻ってきたところでるいが顔をしかめながら言った。
「あの手の臭いはなかなか消えない。帰ったら、鼻の中を洗うことだな」
真乃の当然という言葉の調子にるいが睨んできた。
「鼻の中を洗うって、どう洗いますの?」
「塩水を鼻から吸い込んで口から出すのさ」
るいが青ざめた。どう考えても美しい姿ではない。
「青井様はお洗いになりますの?」
「洗うよ。でないと食べるものが不味くなる」
「そんな、あっさりと……」
「あっしも洗いやすよ。こいつは我慢できねえや」
るいは万蔵の合いの手に、あんたには聞いてないと言いたそうな目付きを返した。
ここが話を変える潮時と、真乃は万蔵に命じた。
「お前は引き続き叶屋の元奉公人から、何でもいいから、例の武家か商人に関わりそうなことを聞き出してくれ」
そこからまた進展があまり無く、更に日が過ぎた。
左頬に傷のある浪人がこの一月暮らしていた店はまもなく東仲町の壊れかけた棟割長屋に見つかった。水死体が見つかる三日前から姿が見えなくなっていた。
やる気のない差配は、三月分の店賃の前払いで、ろくに名前も確認せず、男を住まわせていた。
「名前は木下とか言うとりましたなんてことを差配は言ってますが、ま、偽名でしょうな」
勘六は呆れたという顔つきで片岡に知らせてきたそうだ。
浪人の素性を示すような物は店内に何も見つからず、出入りしていた者がいたという隣近所の目撃談もなかった。
そんな中、るいを襲う刺客が現れていないのは事態の膠着を示すように真乃は感じていた。嵐の前の静けさとも言える。
真乃の困ったことに、もうすぐ「お客」が来てしまう。相模屋に岩五郎の容態を尋ねに繋ぎをとったらば、回復が今一つらしく、用心棒にはまだ復帰できないという返事だった。
――さて、どうしたものか。
この体調と気分の変化からは明後日には始まるだろう。
相模屋の使いに五日間の備えを催促した後で、ひとまず青井の屋敷に戻らざるをえまいと濡れ縁に腰掛けて考えていると、るいが茶と饅頭を盆にのせて現れた。
「大貫屋の旦那様からのお裾分けですの。青井様もお一つどうぞ」
先ほど大貫屋の丁稚が勝手口に来ていたのは把握していた真乃である。
大貫屋の旦那が寮に現れるのは一月に数度のようで、真乃が用心棒で住み込み始めてからはあの襲撃直後と五日前にやって来ただけだ。
だが使いは三日に一度くらい現れている。
商っているのが諸国銘茶だからか、寮でだされるお茶はどれも美味で、「お裾分け」のお茶のあてになる団子や菓子類が丁稚や手代の手でよく届けられる。
今日は饅頭だったかと、真乃は遠慮無く饅頭に手を伸ばした。
「あのぉ……いったんお屋敷にお戻りになるのですよね?」
るいは真乃が相模屋の使いに話していたのを盗み聞きしていたらしい。
「うむ。前にも申したように用心棒として役に立たねばここにいても仕方がない」
「そんなことは無いと思いますけど、お屋敷の方が落ち着きますものね」
「そうでもない」
真乃は素直に言った。
「叔母が煩いのだ。こっちがあまり動けないのを好機と、裁縫のことだの縁談だのを喧しく言ってくるからな。いつも鼻を摘まんで憚りに籠ることになる」
「叔母上様が、ですか。お母上様は?」
「数えの十二に死んだよ」
るいの顔色が変わった。
「それはなんてお気の毒な……育ち盛りの娘を置いて逝くなんて、お母上様はどんなに心残りだったことでしょう……」
るいの同情は母親の方に向いていた。
真乃はくるりとるいに顔を向けた。
「そなたと違い、私は母と小さい頃から折り合いが悪くてな。実のところ亡くなった時にもあまり悲しくなかった。むしろほっとしていた」
るいの表情は信じられないと言っていた。
「どうしてですの?お武家様は日頃のお世話は乳母かもしれませんけど、娘にとって母親は色々教えてくれて、なにかと頼りになるじゃありませんか。『お客』が来はじめたら、そうした身体のことを包み隠さず相談できる唯一の相手ではございません?」
大抵の母娘はそうなのだろう。
真乃は自分と母との軋轢をるいが理解できるだろうかと訝った。
「私が母と似た気性ならば頼ることもできたのだろうが、あまりに違いすぎた。残念ながら母の言うこと、母が私に期待することは、私にとって苦痛でしかなかった。残念ではあるが、どうしようもない。それだけだよ」
「そうしますと、初めて月の『お客』があった時は叔母上様がお母上様の代わりを?」
「いや。ちょうどその時は剣術の修行で父の古い知り合いである師匠の元にいたので、その師匠が近くの名主の御内儀に世話を頼んでくれた」
「まぁ……」
「その師匠は娘を二人育てておられたから、淀み無く対処を教えてくださったよ。赤飯を炊き、ささやかに祝いをして、これからはもっと自分を大切にするようにと申された」
真乃は師匠の姿を懐かしく思い浮かべた。
自身に起きていることに戸惑い、嫌悪し、赤飯を口にするのを躊躇う十三歳の真乃に、師匠は優しい笑顔でこれから真乃の身に起こるであろうこと、少年達のようにはいかなくなること、だが真乃には恐るべき才能があるから真乃ならではの剣術、戦い方があること、どんな時も自分を大切に、自分の心に耳を傾け、心を研ぎ澄まして生きていくようにしなさいと語った。それから十年近く経つ。
「父が師匠のように処せたとは思えないから、家で始まるより良かったかもしれない」
真乃はるいの方は見ずに庭を向いたままそう付け加えた。言い終えた後にもるいに何の動きもないので、どうしたかと向き直ったら、その目が潤んでいた。
「そのお師匠様は青井様にとって、とても大切なお方なのですね」
「何故涙ぐむのだ?」
「なぜかしら……青井様のお顔を見ていたら、お母上様と叔母上様のことを仰っていた時と剣術のお師匠様のことを仰る時の様子があまりに違っていて……どうしてお母上様とそんなに折り合いが悪かったのかしらと不思議に思う気持ちと、お師匠様への暖かい気持ちが感じられて……うまく言えないわ……ひたすら剣術に打ち込んできたなんて、なんて殺伐とした人生かしらと思っていたのが違っていたんだと……ああ、うまく言えないわ!」
るいは襦袢で溢れかけた涙をそっと拭った。それから襦袢を袖の中に戻し、姿勢を正して言った。
「ねぇ、青井様、お屋敷では叔母上様から逃げるために憚りに籠らないといけないのなら、このままここにいらしてはいかがです?あの小部屋は今誰も使ってませんし、あたくしもおかよもおつねちゃんも当分の間使いませんし。あたくし達には気を遣うこともございませんでしょう?」
「よいのか?食事やら何やらそなた達の世話になってしまうぞ」
「もちろん構いませんとも。お武家様には失礼かもしれませんけど、女同士、困った時はお互い様。男達が男向けに仕切る世の中なんですから、女達は身分を越えて助け合えるところは助け合わないと」
るいは茶目っ気のある笑みを見せた。
真乃は少し考えた後で、ここで籠れば叔母から逃げる必要がないし、かよがなにかと世話を焼いてくれて青井屋敷より楽に過ごせそうだと、るいの提案を受けることにした。
それに刺客が襲ってきた場合にも、全く何もできないわけではない。長引いた場合の「後始末」が大変で嫌なだけである。
るいが台所へ消えた後も真乃は暫く濡れ縁に座って昔を思い返した。
るいが指摘したように、剣術の師匠は真乃にとって思い出すだけで暖かい気持ちになる人物だ。十代後半の真乃が師匠に抱いていたのは、今から振り返ると淡い恋心だったかもしれない。
だがその時にも真乃に師匠の元でずっと暮らしたいという気持ちはなかった。母や叔母のような生き方に憧れがないどころか、考えただけで気鬱になったくらいだった。その時にも、真乃には自身の剣術を極めることが唯一見えていた道だった。




