第一部 (十)
引き続き大貫屋の寮で過ごすにしても、月の「お客」を迎えるためには屋敷に取りに行かないといけないものがあった。
紙と古い布切れに下帯、つまり褌である。
町屋の女達が馬の腹帯に似ていることから「お馬」と呼ぶ、紙で作った簣褌状の物をあてがうだけで、布褌はつけない女も多いようだが、真乃は月水の時には必ずつけている。というのも腰巻きを付けないし、激しく動いても緩んだりずれたりしないからだ。
またこの時代、紙は安くないから、そこまでるいの世話になりたくなかった。安売りがあった時に大量に買って箪笥にしまってある。
古い布切れはるいの世話になっても大したことはないが、ついでに、である。
叔母と鉢合わせないことを願いながら、真乃が八丁堀に向かって十軒店を南へ歩いていると、「真さん!」と叫ぶ聞き覚えのある声がした。
思わず真乃は走り去りたくなった。だが下手したら、余計に大騒ぎになる。
観念して立ち止まって振り向くと、思った通り、清吉がこちらに向かって走ってくる。紫帽子をつけた女形姿にも関わらず、裾を端折っている。今日の着物は留袖だ。
「良かったぁ、気づいてもらえた!真さんは歩くのが早いから捕まえるのが大変」
真乃の目の前に来た清吉は、大して息を切らしてはいなかった。なにかと大げさだ。
「私に何の用だ?」
二人は道のほぼど真ん中に立っていた。
清吉は辺りを見回し、路地を指差した。
「ここじゃ話せないわ。あっちに行きましょ。真さんのお耳に入れたいことがあるの。とっておきの話よ」
真乃はこいつの「とっておき」ほど当てにならないものはないと思ったが、次の小声での一言に、ともかくも聞こうという気になった。
「松三郎を請け出した相手じゃないかっていうお侍を見かけたって話なんだから」
真乃はじろりと清吉を見た。
「本当か?何故お前が知っているんだ?」
清吉はえへへと悪戯小僧の笑顔を見せて路地へと歩いていった。路地を少し入ったところで振り向くと、えへんと軽く咳払いをした。
「さっさと言わんか」
真乃は脇差の柄に手を掛けた。「お客」を目前に、一段と気が短くなっている。
「まだ見つかってないんでしょ?」
「だから、早く言えと言っている」
「あのね。あれは二日前のことよ。あたし、ご贔屓の伊勢屋さんに誘われて浅草寺へお参りに行ったの。あたしを贔屓にしてる伊勢屋の旦那は連雀町で筆や硯を商ってる旦那よ。この旦那がちょいと最近うるさくて……」
「要点をさっさと言わんか」
「もう、せっかちかなんだから。順序だてないとわからないでしょ」
「お前の話は一言で済む。どこで見かけたんだ」
「だから、浅草寺へ行ってね、お詣りして……」
元々短気という自覚があるから、日頃は苛立ちを抑えられている真乃だが、こいつには無駄だと冷たく睨み付けながら、鯉口を切った。
「あ、境内に最近良いお店が出たのよ。今度一緒に行きましょうよ。ヒッ」
首筋に刃を当てられては、さすがの清吉も顔色が変わった。
「どこでそれらしい侍を見たんだ?もう一度同じことを言わせたら、その贔屓にしてくれてる伊勢屋の親父に会えなくなるぞ」
「き、菊屋橋……」
「お前達とすれ違ったのか、それとも前か後ろを歩いていたのか」
「す、すれ違ったのよ。笠被ってたけど、背が高いからすれ違うときに顔が見えたの。そしたら、見たことある顔だったのよ」
「見えたんじゃなくて、助平心でお前が下から覗き込んだんだろ。しかし、そもそもどうしてお前が松三郎を請け出した男を知っていたのだ?」
清吉は急にしらけた顔になった。隠し事がある時によく見せる顔つきだ。
「ま、色々とね」
「……松三郎に金持ちらしい旦那がついたという噂を聞いて、おこぼれに預かろうと張り込んだことがあるんだな?」
清吉はしらけた顔のままだ。
「……図星らしいな。張り込んだはいいが、手を出せなかったということか」
「……」
「かなりの遣い手なんだな。どんな侍だ?」
「……この刀どけてよ」
「聞きたいことを聞けたらどける。どんな侍だ?顔立ち、背格好を言え」
「二刀差してる人って、どうしてこうも気が荒いのかしら」
「お前が余計なことをするからだ」
「……そうね……背丈は真さんより三寸は高かったと思うわ。面長で目は切れ長のきりりとしたいい男。ほら、大事な話だったでしょ」
清吉は自慢気だ。
確かに、そんな風に形容される侍が江戸に何人いるかはともかく、何もわからなかったことを思えば大いなる前進である。
「年はいくつぐらいに見えた?」
「真さんより少し上ね。三十手前くらいかしら」
「前に茶屋で見かけた時と二日前では様子に違いはあったか?例えば顔つきが変わっていたとか、着物が薄汚れていたとかだ」
「うーん……もともと無愛想だったし、特に変わった感じはしなかったわね。着物もくたびれた感じはなかったし」
真乃は清吉の話を頭のなかで整理した。背丈は六尺前後の面長、切れ長の目のきりりとした印象を与える侍。二日前に新堀川にかかる菊屋橋を西から東へ渡っていた。
様子からすると、左頬に傷があった男のような大きな変化はなかったと考えられる。
「その侍の顔を覚えているな?」
「もちろん」
「その侍のこと、他の誰かに話したか?」
清吉はかぶりを振った。
「真さんだから話したのよ」
「では他言無用だ。数日のうちに万蔵がお前の所に行くから、万蔵にだけ話してくれ。誰にも聞かれぬように気を付けてな」
「万蔵って、真さんの幼馴染みの腰巾着の、あの抜け作?」
「お前に言われちゃ万蔵も気分悪いだろうな。今は私の指図で動いている。万蔵が訪ねてきたら、誰にも気付かれぬよう、隠れて話をするのだぞ」
清吉ののほほんとした顔が引き締まった顔に変わった。
「あのお侍があたしを殺しに来るかもしれないってのね。面白いじゃないの」
「そんな威勢のいいことを言ってられるのも今のうちかもしれんぞ」
青井屋敷にそろりと裏門から入った真乃は、叔母の気配がないことを確かめてから、音をあまり立てずに庭を駆け抜けて濡れ縁へあがり、そっと自室の障子を開けた。
身重の義姉は兄の勧めで実家に行ったままのようだった。このまま臨月まで実家にいるのかもしれない。その方が良いだろうと真乃も思う。実家にはお産と子育てを経験した実母と祖母が健在なのだ。
真乃の部屋は女中達が時々掃除してくれているようで畳の上にも箪笥の上にも埃は積もっていなかった。
ささっと必要なものを風呂敷にくるんで部屋を出た途端に声がした。
「真乃、戻ってきたのではないのか」
濡れ縁に父親、真右衛門の姿があった。さすがである。見事に気配を消していた。そこまで来ているのに気が付かなかった。
「まだ当分向こうにおります。事は単純ではありませぬゆえ」
「この度の仕事は大貫屋の妾の警護ということだったな」
真右衛門はため息をついた。
「真佐江がうるさくて仕方がない。お前にとても良い縁談があるそうだ。相手にとっては後添いになるが、前妻を病で亡くして子はおらず、人柄も良い徒目付の惣領だそうだ。まだ家督を継いでおらぬが御父君は後添いを迎えたら、家督を譲って隠居しようと考えておられるらしい。徒目付の録高は我が家の半分だが、なんといっても譜代席だ。抱え席の家から嫁を取るのはなかなか無いぞ。儂も良い話だと思う」
真乃は父親が話している間に濡れ縁から庭へ降りていた。通常ならば叱られる行動であるが、真乃がよく使う聞こえない振りだ。
「では父上、行って参ります。この度の給……もとい、礼金も仕事が完了した後で一部お渡ししますゆえ、お待ちください」
真乃は風呂敷包みを片手に丁寧に礼をすると、さっと踵を返した。
「こら、待たぬか。少しは家でゆっくりできぬのか。この前お前と差しで飯を食うたのは一体何月前になることか」
なんとも情けない、敏腕で鳴らした元与力とは思えない声だった。
さすがに真乃もその呼び掛けを無視することはできなかった。
「父上ともあろう御方が大袈裟な。大貫屋の寮に出向く前夜に晩酌の御相伴に預かったではありませぬか。こうしている間にも何かあるといけませぬ。お聞きになっておられませぬか?今度の仕事は先日の柳原での若衆殺しと佃島沖で亡骸が見つかった浪人に関わりがあると思われるのです。大事になりそうです」
「静馬から聞いておる。どこかの武家が関わっているというではないか。お前もよく承知しているはずだが、相手が幕臣では下手人であっても町方は手をだせぬぞ。もしもお前がどこかの家中の揉め事に巻き込まれたら、儂にも静馬にもどうにもできぬ」
「自分の身は自分で守りまする。父上はそれだけの技をわたくしに身につけてくださったではありませぬか。父上にも兄上にも御迷惑はかけませぬ」
真乃が毅然として答えると、真右衛門の顔に複雑な感情が現れた。
「いくら強くてもだな……そ、そうだ、御奉行もお前の事を心配してくださっているそうだ。お前を見たこともない永田様がだぞ。誰が御耳に入れたか知らぬが……」
「誠に身に余る、ありがたいことですけれども、御奉行様には心配御無用と御伝えください。では」
真乃は大股に庭を横切りあっという間に裏門から外へ出た。
父親が「なんでこうなってしまったのか。儂は間違ったのだろうな」と後悔を口にするのが微かに聞こえた。
これまでに何度も聞いた科白である。だが真乃は父親に娘に剣術を教えたことを後悔してほしくなかった。
剣術は真乃の生きる術になっているのだ。
剣術の道を開いてくれたことに真乃は感謝しかない。それがどうしてわからないのだろうともどかしい。
結局は母親だけでなく父親も自分をわかっていないのだと、近頃真乃は結論する。人はそうした干渉を愛情と呼ぶ。だが、真乃にとっては足枷でしかない。
師匠の声が頭の中で聞こえた。
「自分を大切にするのだよ」
師匠の元で武芸の修行を積む間、事あるごとに言われた言葉だ。夏場だけだったが、十二歳から十七歳までの六年間、師匠に鍛えてもらった間、ことあるごとに、である。その時の師匠はいつも穏やかだった。
真乃には師匠が何故その言葉を繰り返すのかわからなかった。
自分を大切にしていないとは思っていなかったし、今も思っていない。むしろ自分の感情に正直過ぎて、我が儘なくらいの言動をしていると思っていた。
今も真乃に解けていない謎である。
本郷一丁目にある貸本屋であまり動けない間に読んで暇潰しするための読本を三冊借り、団子屋で団子を六本買って真乃は大貫屋の寮に戻った。
寮ではるい、かよ、みねとつね母子にやすという、みね一家の向かいに住む老婆が台所に集まり賑やかだった。
「あ、青井様、お帰りなさいませ」
真乃に真っ先に気付いたのはるいだった。明るく声をかけてきた。
かよが素早くすすぎの用意をし始める。
「忠蔵さんが卵を安く分けてくださったんですよ。明日は卵焼きを作りますね。この前弦好先生が時々卵を食べるのは身体に良いと仰ってましたの。高くてめったに買えませんから、大事に食べなくっちゃ」
るいはそう言いながら立ち上がり、勝手口へと歩いてきた。
弦好先生とは隣町に住む漢方医で、貧乏な長屋の住人も快く診ると評判の医者だ。
ちなみにこの時代の鶏卵の相場は一個四文(約300年後の150円前後)である。
「ずいぶんお早いお戻りでしたけど、お父上様とはお会いになれました?」
いくぶん小声である。
「こっそり用事を済ませてくるつもりが見つかってしまった。気配を消す術は衰えていない」
「青井様がお帰りになるのを待っていらっしゃったのでしょうね。ここへお引き止めしたのは良くなかったかしら」
「月水の間に父上と喋ったことなど無いのだから、気にしなくて良い。それに最近は父上と顔を会わせてもろくな会話にならないから、会わないに越したことはない」
るいが眉をひそめた。
「親不孝者だと思うのであろう」
「色々と事情がおありなようですし、お武家様のお家は女子に厳しいとも聞きますから、あたくしのような者にはなんとも……それにあたくしは九つで父を亡くしたので、よくわからないんですの。もしもお父つぁんが長生きしてたら、青井様と同じようにうまくいかなかったのかもしれませんね」
「そなたなら大丈夫だ。縫い物好きで武術に興味がないではないか。土産だ。そこで買った団子だがな」
真乃は手に持っていた団子の包みをるいの目の高さまであげて見せた。
その日の夕方、万蔵が聞き込みの進捗報告にやって来た時、真乃は清吉の面長、切れ長の目の侍目撃談を教えた。だが万蔵自身に探れとは言わなかった。
「片岡さんに伝えて捜してもらうのだ。それらしい人物がみつかったら、清吉に確認させる。それらしい人物が見つかるまで清吉の名を出すのではないぞ」
「それじゃあ片岡様にはどこからネタを仕入れたと言うんです?」
「嘘を言う必要はない。訳あって名は明かせないが、前に茶屋で松三郎といる侍を目撃した者の証言だと言えばよい。名を明かせない訳は私に聞くよう言ってくれ。片岡さんのことだから、すぐに察しがつくと思うがな」
「すると、あっしは引き続き叶屋でやすか?」
「そうだ。なんとしても例の武家か商人がどこの何者か探り出すのだ。それから明日から三日ほどはお前が来ても会えないかもしれぬ。留守だと言われたら、るい殿かおかよさんに伝言してくれ」
「わかりやした。……三日もどこへ行きなさるんで?」
「あちこちだ」




