第一部 (十一)
翌日から真乃は例の部屋に籠った。毎月、嫌で嫌でたまらない五日間だ。冬より夏はまだ楽ではあるものの、真乃の場合、初日と二日目は腹痛と倦怠感に耐える二日間である。頭痛がしてくることも多い。
真乃が痛みに耐えているのを知ったるいは、こんな時には冬と同様に腰を暖めるとよいのだと、間もなく季節外れの湯湯婆を抱えて現れた。
「母に教えてもらったんです」
「汗をかくではないか」
るいは布団の上に横向きに丸まって腹痛に耐えている真乃の腰に湯湯婆をあてながらこう言った。
「ほら、汗をかくほど熱くはございませんでしょう。もしもたらたらと汗をかくようでしたら、少し離して……夕暮れ時にお湯と手拭いをお持ちしますよ。それでさっぱりできましょう」
少しすると、確かに楽になってきた。眠気もくる。真乃は素直にるいに礼を言った。
目が覚めたら御天道様の位置が先ほどから随分変わっていた。一刻以上寝ていたらしい。
喉が乾いていたが、かよが置いてくれた急須に白湯は僅かしか残っていなかった。起き上がったら布切れと紙帯を持って、速やかに厠へ行かねばならない。台所へ行って白湯を飲むのはその後だ。
真乃が厠から出ると、濡れ縁を歩いて台所へ戻るかよの後ろ姿があり、籠り部屋に戻るとるいが湯湯婆の湯を変えたところだった。
その脇には急須と湯飲みが二つのった盆が置いてある。湯飲みのひとつには白いものが見え、甘酒の匂いが漂ってきた。
「おかよが甘酒を買ってきましたのよ。弦好先生によると、こんな時には甘酒を飲むのが身体に良いとか。どうぞお召し上がりくださいな」
「ちょうど白湯をもらいに台所へ行こうと思っていたところだ。ありがたい。色々世話をかけるな」
「これくらいどうということはありませんよ。白湯も甘酒もあたくしたちも飲みますし」
やはり屋敷に戻らなくて良かったとしみじみ思いながら、真乃は甘酒を啜った。
叔母の小言を聞くこともなく、屋敷内の男達に気を遣う必要もないうえに、るいもかよも実に欲しい時に欲しいものを持ってきてくれる。
思えば義姉とは月水の話をしたことがない。
屋敷では二十年近く青井家で働いている下女が何かと気遣って世話をしてくれるが、それは主従だから、である。
その点、るいの世話の焼き方は少し違うと真乃は感じていた。武家と町人という身分の違いを越えた人として、同じ女としての好意からだと感じるのだ。
叔母同様、お節介で口喧しいところはあるものの、るいは真乃の日頃の格好や言動に少なくとも非難めいたことは言わない。用心棒として関わっているのだから当然かもしれないが、叔母のような人物ならば警護してもらっていても、余計なことを二言三言、言わずにいられないだろう。
真乃の月水痛が強い方だと知った叔母は、男の成りをしているからだと揶揄する。どんなに頑張っても男になれるわけがないのだからと、勝手な思い込みで言いつのる。
男の格好をしていない女にも真乃以上に月水痛の酷い者がいるし、何より真乃は男になろうとしているわけではなかった。
――月水の無い男を羨ましいとは思うが、こうして毎月女であることを思い知らされているのだから、勘違いしようがないだろうが!
真乃は叔母の言い草にいつも心底から腹が立つが、何を言っても無駄だとこの頃はひたすらだんまりを続けている。
父親や兄に理解してもらえないのはまだ仕方ないと思えるが、昔から同性である母や叔母に無体なことを言われる度に苛立ちと悲しさを感じていた。
結局、自分はどこにも属せず、誰とも違うことを痛感するのだ。その思いが更に剣術、武術への専心に拍車をかけてもいた。
そうしたむしゃくしゃしたり苛々する気持ちが今回は起こっていない。
湯湯婆が効いたのか、ゆったりと過ごせているのが良いのか、二日目の痛みはいつもより軽かった。
無論、怪しい気配を見逃すようなことはしない。その点は自信がある真乃だった。
毎夕の万蔵の報告は、表向きはるいが聞いて真乃に言付けるとしながら、籠り部屋から真乃が密かに聞くことにしていたのだが、真乃の予想外に三日目の報告には片岡が万蔵と共にやって来た。
何か進展があったのだと真乃は察した。
万蔵と違い、日頃の片岡はあまり大きな声で話さない。聞き取れないかもしれないと真乃は心配したが、片岡が一言ぶつぶつと挨拶した後に聞こえてきたのはよく通る万蔵の声だった。
「松三郎さんの『思い人』じゃねえかっていうお侍の目星がつきやしたよ!」
真乃は驚いた。
さっそく明日には清吉に顔を確認させるという。待ち伏せて確認するのは浅草寺の南だった。……ということを話したのも万蔵である。
――さすが嘉兵衛親分だな。三日足らずで見つけ出すとは。しかし、片岡さんは何しに来たんだ?
籠り部屋で真乃が訝しんでいると、片岡の声が短く聞こえた。
好奇心を抑えきれず、真乃は障子を少し開けて様子を窺った。
片岡は濡れ縁に腰かけ、湯飲みに手を伸ばしていた。万蔵は立ったまま湯飲みを手にしている。
いつも片岡に付き従っている御用箱を担いだ奉行所雇いの中間の姿はなく、片岡家の奉公人、留吉だけが枝折戸脇に立っていた。
――私用で来たということか。
「たった三日で見つけるなんて、皆さん凄腕ですのね」
「あっしは叶屋の方を言いつけられたからなぁ」
万蔵は不服そうだった。
「あら、叶屋の方を万蔵さんに任せてるのは、青井様が万蔵さんの聞き込みの腕を信頼してらっしゃるからですよ。とっても難しいからこそ、万蔵さんなのですよ。期待に応えないと」
るいの煽てに万蔵はそうかなと照れながらも嬉しそうだった。
「ま、明日は叶屋の元奉公人への聞き込みは一休みでさ。清吉ってヤツの守りしねぇと」
るいとぺらぺら喋る万蔵を横目で見る片岡の目つきに真乃は吹き出しそうになった。
二人を見送ると、すぐにるいは籠り部屋にやってきた。
「万蔵さんはちょっと悔しそうでしたよ。嘉兵衛さんに手柄をとられたと感じているのかも」
「長年片岡さんの御用聞きをしてきた嘉兵衛親分と万蔵では、岡っ引きとしての差が月とすっぽんどころではない。嘉兵衛親分は下っ引きやつるを相当抱えているはずだ」
「つる?」
「密告屋のことだ。片岡さんが定町廻りとして挙げてきた手柄は実のところほとんどが嘉兵衛親分の手柄だ」
侍の面体確認に付き添いたい気持ちが真乃に湧いたが、明日はまだ待ち伏せに付き合うのは難しい。
嘉兵衛親分がついているのだから大丈夫だ、無事に終わると、自身を納得させた。
「片岡さんは何か申されたか?」
念のため真乃は聞いてみた。
「それが、ご挨拶だけでしたの。最初とお茶をお出しした時と、お帰りになる時に一言ずつ。どうしてわざわざお見えになったのかしら。万蔵さんが勝手なこと言わないように見張るため?あ、青井様にお会いになりたかったのかしら」
真乃はるいの顔をまじまじと見た。わざと気がつかない振りをしているのではないかと疑った。
「おるいさん、あんた……」
言ってから、真乃は気安く呼びすぎたと気づき、慌てて言い直した。
「るい殿、そなた、気がつ……」
「あら、あたくしは『おるいさん』で構いませんけど。その呼ばれ方の方が好きですもの」
「呼び名を崩すと他も崩れたりするんだがね」
「御町の旦那みたいに?あたくしは気になりませんわ、あ、あたしもあたくしなんて止めて『あたし』でいきますわ。いけませんか?」
「好きにしてくれ。こちらは『く』があろうと無かろうと気にしていない」
真乃は何を言おうとしたのか忘れた。
四日目には降りてくる量も落ち着いたので、真乃は万蔵の報告をじかに聞くつもりでいた。
身体も鈍ってきているし、心を落ち着けるためにもと、万蔵を待つ間、籠り部屋前の庭で着流しに脇差を差した姿で薪割りをかんかんやり始めた。ほんの十本程割ってやめるつもりだったのだが、やり始めた途端、るいもかよも庭に飛び出してきた。
「青井様、なんとまぁ!薪ならまだございますよ。今日一日はまだ休んでおられた方が……」
るいの言葉が途切れた。じいっと真乃の腰から下を凝視している。
「青井様、まさかと思うのですけど、腰巻きはつけずに、褌つけた上に襦袢と単を着ただけの着流し姿で薪を割っておられます?」
「そうだ。何か不都合があるかい?」
薪割りの手を止めずに真乃は答えた。
沈黙があった。
手を止めてるいとかよの顔を見ると、二人とも口を開けてこちらを見ていた。
「……ひょっとして、ひょっとしなくても万蔵さん、青井様のそんなお姿を見たことがあるのですね?」
「……あったな。一々覚えておらぬが、おそらく何度か」
るいはふうと息を吐いた。
「万蔵さんを責められませんわね。無理ないわ」
「褌をこのようにつけておれば、少々足を開こうが裾が捲れようが内腿を曝すことがないのだから、実に便利だ。月水の時の唯一の利点だな」
真乃はペラリと単の裾を捲った。ちらりと赤い布切れが見えた様子は、町方の同心が颯爽と歩く時にちら見せする風と全く同じである。
かよが慌てて口を押さえて後ろを向いた。
るいの方は真乃に向いたまま呟くように言った。
「便利かもしれませんけど、それじゃあどこから見ても男にしか見えませんよ。まさか二十歳過ぎの女があれの時にそんな格好をしているとは誰も……」
「思わないから都合がよいのさ。面倒が省ける」
「そ、そ、そうですか?違う面倒が起こりません?この前も十三、四の町娘が二、三人、青井様の後をついて歩いてたって聞きましたよ。ここを覗きに来た娘もいましたし」
「娘達は暇なのだな」
「気づいていらっしゃなかったのですか?」
「全く気づいていないわけではないが、殺気がない者はあまり気にしない」
そう答える間にも真乃は薪を二本割っていた。
「来たな」
そう呟くと、真乃は薪をもう一本割って斧を肩にかけた。
長屋の住人の話し声や物音に混じって軽い駆け足の音が近づいてくる。
「今日は真さんいる!良かった!」
枝折戸に手をかけながら万蔵が叫んだ。
「万蔵、待っていたぞ。首尾はどうだった?」
真乃は斧を肩にかけたまま尋ねた。
「当たりでやした!清吉が間違いねぇと」
「地獄耳の嘉兵衛親分、渾名は伊達じゃねぇな。名前や住んでる所もわかったのかい?」
「へい。つい最近、浅草は真砂町の石助長屋に現れるようになった『能勢豊』って侍だそうでやす。半年くれぇ前から住んでる田中理十郎というご浪人の店に転がりこんでやす。差配の欽右衛門さんが最近見かけねぇお侍が出入りしているねと田中様に尋ねたところ、幼馴染みの能勢豊だと仰ったそうで、本人が答えたわけじゃありやせん。ですんで、ほんとの名前かどうかわかりやせんが、田中って浪人の店から出てきた能勢って侍を清吉に見せたら、間違いねえと」
「……面体を確かめたのは何時頃のことだ?」
「えーと、朝の四つ半(11時)頃でやす」
「確かめてから二刻も経つではないか」
真乃の不機嫌な声音に万蔵が戸惑いを見せた。
「嘉兵衛親分が差配や近所に聞き込むのを横で聞いてたもんで……」
真乃には嫌な予感がしていた。
「清吉に警護はついているだろうな?」
「え?へぇ。片岡さんが嘉兵衛親分に指図して、芝居小屋へは親分の下っ引きの茂助さんと徳太郎さんが送っていきやした」
「さすが片岡さん、よくおわかりだ。万蔵、その能勢という侍が転がり込んでいる真砂町の長屋へ案内しろ。すぐに用意するから表で待っててくれ」
「これからすぐに、でやすか?」
万蔵が目をぱちくりさせた。
「そうだ。かなりの遣い手なだけに気になる」
真乃は万蔵に手で早く表へ行けと促すと、斧を濡れ縁に立て掛けて一蹴りで濡れ縁に飛び上がり、次の一歩で籠り部屋へと入った。
紙と布を掴んで厠へ行くと、紙帯を取り変え、少々暴れてもずれたりしないようにこよりを二重にして結び、その上に褌をしっかり閉め直した。
部屋に戻ると念のため懐紙を多めに懐に突っ込み、刀を差しながら濡れ縁から飛び降りた。
るいに指図しようとそちらに向いたら、呆然とした顔のるいが先に口を開いた。
「青井様、お袴は?」
「こんな時に履いていられるか。下帯をつけているから問題ない。万が一刺客が来てはいかぬから、私が戻ってくるまでおかよさんとおやす婆さんの所にいなさい。もうそこまで楠田殿と八代殿が来ているはすだ。良いな!」
真乃は大股に走りだした。
「待って!そんな!お袴を……」
るいの声が遠ざかり、あっという間に表に出る。
万蔵は惣兵衛長屋の木戸を出たところで待っていた。
「浅草まで走るぞ。遅れずについてこい!」
「へい!」
万蔵が返事をした時、真乃はもう走り出していた。
「し、真さん、待ってくだせぇ!」
元からの素質、体質に加え、十二から十七まで真夏に山々を駆け、川を泳いで身体を鍛えてきた真乃は、そこら辺の男達より走力も体力も桁違いに強くになっている。
道行く人は、裾振り乱して走る侍とその後ろを尻端折りで喘ぎながら走る小者の只ならぬ雰囲気に、慌てて端へ避けていった。




