第一部 (十二)
真砂町に入ったところで真乃は足を緩めて万蔵が追いつくのを待った。
「どこだ?」
「はぁはぁ……あ、あそこでやす。み、右手の筆屋と……蝋燭屋の間の路地を入った所で」
万蔵が指差した先を確認し、真乃は辺りに気を配りつつゆっくり歩きだした。
路地の入口につくと、上に掲げてある長屋の住人の名札に目を通した。田中理十郎の名札が右から三番目にあった。
少しの間そこで佇んだ。気になる気配は何も感じられなかった。
万蔵は真乃の様子を黙って見守っている。
「怪しい気配はしない。田中という浪人も能勢という侍も不在だろう。ともかく店を確かめよう」
「へい。いつもながら、榊の旦那も真さんも遠くから人の気配を感じ取れるのがすげえなぁ」
万蔵は嬉しそうだった。
「田中という浪人の店は右手の三番目だな?」
「へい」
三番目の店の前に来た時、奥の井戸端で話し込んでいた三人の女が余所者が入ってきたのに気づいて様子を見に首を伸ばした。
「田中様なら、いらっしゃらないですよ」
三人の中で最年長と見える女が前掛けで手を拭きながら立ち上がり、真乃達の方へ歩いてきた。その後ろでは残る二人が目を丸くしてこちらを見ている。
「そうらしいな。ここへ最近転がり込んだという侍もか?」
真乃の問いかけに、女は真乃と万蔵の顔を見比べながら答えた。
「お侍様はあの能勢様のお知り合いですか?」
「知り合いの知り合いだ。能勢殿にちょっと尋ねたいことがあってここへ参った。能勢殿も留守か?」
「あのお侍様、いつものようにお昼前に出掛けたと思ったら、一刻程で戻ってこられて、またすぐにお出かけになりましたよ」
真乃の予想が当たったようだった。落胆を隠して万蔵に向いた。
「万蔵、差配に田中理十郎の店の中を見たいから立ち会うよう頼んでくれ」
万蔵はすぐに白髪頭の男を連れて戻ってきた。
その短い間に三人の女達は真乃に何か聞きたそうだったが、真乃は話しかけるなという気を放ち、女達を遠ざけていた。
万蔵の後ろをついてきた差配は真乃の姿に一瞬ぎょっとしたようだったが、すぐに平静を装い、腰低く挨拶してきた。
「この長屋の家守をしております欽右衛門と申します。田中様の店をご覧になりたいとか」
「うむ。昼間に嘉兵衛親分がお主を訪ねたであろう。その繋がりだ。二人とも留守らしいが、ことは急がねばならぬ。勝手に戸を開けて後で色々文句をつけられても困るから、お主に一緒に中を確認してもらいたいのだ。なによりこの中を確かめるのはお主のためになると思う」
真乃の言葉に欽右衛門は言わんとすることを察したらしい。硬い表情になって頷いた。
「畏まりました。あたくしが戸を開けますので、中をご覧ください」
戸は軽く開いた。
欽右衛門が最初に中を見回して土間に足を踏み入れ、その後ろから真乃と万蔵も中を見回しながら足を踏み入れた。
店の中はいたって綺麗だった。
土間の棚には鍋と薬缶が置かれているだけだったが、どちらもそれなりに使い込まれ、埃も積もっていない。
上がり框にも埃はなく、框に続く畳敷きの四畳半の一方の壁沿いに箪笥が一つとその横に箱膳が二つ、反対の壁際に布団が二組重ねて置かれていた。
確かに二人が寝起きしていたようだ。
真乃は箪笥の一番上の引き出しを開けた。中には表に何も書かれていない封書が一つ置かれているだけだった。その封書に手を伸ばす前に他の引き出しの中を確めた。二段目も三段目も空だった。
真乃の後ろから引き出しの中を見ていた欽右衛門が三段目の引き出しも空なのを見て、呻くように小声で呟いた。
「こ、これは……まさかお二人とも……」
「もうここへは戻らぬつもりだろうな」
いくら荷物が少なくても、箪笥に着替えの一つくらいは入っているものである。そうして着物は古着でも安くはないし軽いので、急いで出ていく時にも残していくことはめったにない。
真乃はもう一度一番上の引き出しを開けた。封書は手前に置かれていたのだから、見つけてくれといわんばかりだ。
真乃は慎重に封書を取り上げた。中に固い何かが入っている。持った感じからは端に重みのある細い棒である。
――簪?
真乃は欽右衛門と万蔵にも見せるように、二人に向いてそっと封書を開いた。中からはまた封書が出てきた。その表には「るいさまへ」と細い筆で書いた仮名があった。裏を見る。何も書かれていない。
「『るいさま』って、真さんが用心棒している、あのおるいさんのことですかね?」
万蔵が昂奮した口振りで言った。
真乃は中から出てきた封書を一段と慎重に開いた。中には一本の鍍銀の平打ち簪と文が入っていた。簪の先には桜が繊細な透かし彫で描き出されている。
真乃は黙って文を読んだ。
るいさま
なかなかおあいできませぬけども、おかわりございませぬでしょうか。
わたくしはそのごもおだやかにとてもしあわせにすごしております。
せんじつやたいでねえさんににあいそうなかんざしをみつけました。じぶんでかうつもりだったのですけど、せわになっただいじなひとにおくるのだともうしましたら、だんなさまがかってくださいました。なかなかおあいできそうにありませぬので、このふみととともにおくります。
このしあわせがいつまでもつづくとはおもいませぬけども、いちにちでもながくつづくことをねがっております。なにがおころうとくいはございませぬ。それだけはねえさんにしっておいてもらいたいとおもっております。
まつさぶろう
真乃は読み終えて珍しく目頭が熱くなった。
松三郎は己の運命を察していたのだ。遠からず命を奪われることを覚悟していた。そのうえで「だんなさま」と暮らす日々を幸せだと言ってのける心の有り様に、真乃は強さと潔さ、これまでに松三郎が耐え忍んできた数々の苦労を思った。
るいと違って例の茶屋での立ち話中にも何か気づくことがあったのかもしれない。
請け出される前に勘づく何かがあったのかもしれない。
この三月にも色々とあったのかもしれない。
外出時には笠を被っていたろうが、あれだけの容姿である。 町地で暮らしていたら、もっと目撃談が出ているはずだ。とうに嘉兵衛親分が住み処を見つけているに違いない。
となると、能勢豊の主が住む武家屋敷内にいたことになる。
そこで何を見聞きしたのか。
果たして本当に穏やかな日々だったのか?
真乃はそれ以上考えるのを止めた。
真乃と同時に文に目を通したであろう欽右衛門も万蔵も何も言わなかった。
「欽右衛門殿、この文は私が用心棒をしている女性へ宛てた文だ。私がその女性に渡す。異論はあるまい?」
「はい、それはもう異論ございません。しかし……」
欽右衛門は首を傾げた。
「田中様も黙ってここから出られるとは……。この様子ではそういうことでございますよね?昨夜もお帰りになった時にご挨拶いたしましたが、そんな素振りは微塵もございませんでしたのに……」
「田中理十郎という浪人がここに越してきたのは半年ほど前だそうが、何を生計としていたのだ?」
「それが……存じません。ほぼ毎日お出かけになり、毎月ちゃんと店賃を入れてくださいましたから、あまり突っ込んだことは聞けませんで……」
その時、えっほ、えっほという駕篭かきの声が石助長屋の前で途絶えた。と、女の声が路地に響いた。
「どいてください!通して!大事な用があるんですから、中へ入れてくださいな!青井様!万蔵さん!どこにいらっしゃいますの?」
るいの声だった。真乃は思わず頭を抱えてしゃがみそうになった。
「ったく、あのるいという女は!」
「ええ、探しているのはそのお侍様と小者です。この店なんですね?」
井戸端にいた女達がるいに真乃達の居所を教えたらしい。
「青井様!」
戸は少し開けたままにしていたのだが、そこからぐいと大きく引かれ、るいが片手で胸元に布を抱えたまま、田中理十郎の店へ飛び込んできた。その勢いのまま、後ろ手で引戸を閉める。
勢いが強過ぎて戸はまた少し開いた。
真乃の姿を認めると、るいは両手で布を差し出した。
「お袴を身につけてくださいまし!そのようなお姿で町中を走りまわるなど、あたくし、青井様のお父上様やお母上様になんとお詫びしてよいか、もう……」
見覚えのある布だと思ったら、るいが差し出したのは真乃の袴だった。真乃の方は文と簪を手にしたまま、黙ってるいを見つめた。
「どうかなさいました?」
るいは真乃と万蔵の様子に戸惑い、差し出した袴を再び胸元に抱えた。
「松三郎からそなたへの贈り物の簪と文だ。万が一の用心に先に読ませてもらった。許せよ」
真乃が差し出した簪と文をるいは暫くぼうっと見ていた。瞬きして我に返ると袴を上がり框に置き、簪と文に両手を伸ばした。手が震えている。
震える手のまま、るいは食い入るように文を読んだ。何度か読み返し、また暫くぼうっと遠くを見る目をした。それからやっと簪に目をやった。
「松三郎……覚悟してたなんて……なんで逃げなかったのよ!あたしが匿ってあげたのに!盾になったわよ!大貫屋の旦那様に頼み込んで、用心棒をいっぱい雇って、絶対にあの子だけは守りぬいて……」
途中からは涙声だった。るいは袂に顔を埋めた。
「松三郎にはそなたまで危険に晒すような、そんな真似はできなかったろうし、なによりその旦那に惚れていたのだろう」
真乃は優しくるいに語りかけた。
「人の縁や相性とは面白いものだな。松三郎がそなたに何を見たのか私にはわからぬが、松三郎にとってそなたは誠の姉以上に姉だったのだろうな。この文は松三郎の旦那にとって出されては困る文だ。だがその旦那は破り捨てずに、見つけてくれというように引き出しの中に入れてあった。旦那にも僅かながら人の情はあったということだ」
るいはきっと顔を上げて真乃を見た。
「どこが情ですか!少しでも情があるなら、松三郎を手にかけることなどできるはずが……あ。その旦那が自ら手にかけたとは限りませんわね。松三郎がこんなに好いて幸せを感じていたんですから、別の誰かが……」
るいは自分に言い聞かせるようだった。真乃はその点については答えなかった。
「ともかくも、ここに転がり込んだ侍が松三郎の『思い人』なのは、これではっきりした」
「では能勢というお侍様が松三郎を請け出したお方なのですね?」
「ここで能勢豊と名乗っていた侍は身請けの金を払ってはいないと思うが、松三郎が請け出された後に一緒に暮らしていた旦那なのは間違いない」
真乃の言葉にるいは身震いした。
「能勢様には後ろ盾がいらっしゃると?……そのお方が黒幕?」
ここへきて真乃は外が人の気配だらけなのに気づいた。少し開いている戸口から何人かが中の様子を窺っている。殺気がないと鈍くなる時があるのだ。「お客」お迎え中のせいもあるだろう。
「万蔵、あの連中を追い払って戸を閉めろ。見世物じゃねぇ」
真乃が軽い調子で万蔵に指図した。
万蔵は「へい」と答えて上がり框から土間へ飛び降り、戸の外に向かって叫んだ。
「見世物じゃねえよ!てめぇの世話焼いてな!」
ピシャリと戸を閉めた後で、万蔵が目を丸くしてこちらに向いた。
「真さん、外はえれぇことになってやすぜ。どっからこんなに湧いたんだってくれぇ、十四、五の娘っこが集まってやさぁ。お江戸にこんなにいっぺぇ若い娘がいたんでやすね」
「何を馬鹿なこと言ってるんだ。御府内に男が圧倒的に多いのは勤番侍のせいだ。村ほどでないにしても、町地では半々に近いよ」
「えー、あっしが言いてぇのはそういうんじゃなくてでやすね……」
万蔵の言葉にるいが用事を思い出した顔になり、真乃を睨んだ。
「青井様がそんなお姿で走りまわるからでございますよ。町娘達が勘違いして青井様を追いかけて集まっていて、あたしもこの路地へ入るのに一苦労しましたのよ!あの年頃の娘に青井様の赤褌ちらつかせて走る着流し姿は目の毒過ぎます!」
るいが「赤褌」を口にするとは思わず、真乃は一瞬呆気にとられたが、顔つきからして万蔵も同じだったらしい。
「そんな娘達はすぐに諦めるさ。それよりその簪、差してみてはどうだ?松三郎がそなたに似合う、差してもらいたいと選んだ簪だ」
るいは手にした簪を見つめた。
「こんな可愛い桜の簪、あたしみたいな年増に似合うかしら」
「似合うさ。松三郎の目は確かだよ。鏡がないから、私が差してやろう」
真乃はるいの手から簪を受け取ると、髻の右側へあと差しに差した。
「本当に似合ってます?お世辞は言わないでくださいまし」
るいは恥ずかしそうだった。
「似合ってるよ。なぁ万蔵」
真乃はるいを万蔵の方に向かせた。
「似合ってやすよ。おるいさんはなんでも似合うと思いやすがね」
「似合ってますよ、おるいさん」
欽右衛門も真顔で頷きながら言った。
るいは二人に会釈で礼を返し、頬を染めて愛おしそうに差した簪に触れた。それからそっと呟いた。
「ありがとう。松三郎……」
その間に万蔵は再び上がり框にあがって真乃の後ろへ回り込んだ。そうしてこちらも呟いた。
「真さん、都合悪くなった時に話をすげ替えるのうめぇや……」




