第二部 (十一)
着地の衝撃を膝や足首でうまく吸収し、真乃は板の間に屈んだ体勢で降りた。上の方から「動揺していなかったな」、「某の方が慌てました」といった声が聞こえた。
目の前には太い格子があり、その向こうに蝋燭に点された灯が頼りなく揺らめいている。
斜め横にも四畳半くらいの広さの牢屋が見えた。
見上げると、さっきまで立っていた畳の裏と思われる板張りの天井が目分量で五尺ほど上に見えている。
問題は臭いだった。様々な臭いが混ざりあった悪臭が鼻をついた。
「あ、青井様!」
後ろで悲鳴のような甲高い声がした。
「助けに来ると思っていたのが、捕まってがっかりしたか?」
真乃は振り向きながら言った。振り向ききる前にるいがしがみついてきたから、真乃は大いに面食らった。
「ごめんなさい!あたしが勝手に出掛けたから……ごめんなさい!八代様は、八代様は……取り返しのつかないことに……青井様までこんな所に……」
そこまでいうと、るいは床に崩れ落ちるように座り込んだ。
「全くだ。何故私に打ち明けなかったのだ」
「だって……」
るいが顔をあげた。化粧はとうに剥げて、真っ赤な目と鼻をしていた。泣き腫らした顔だ。
「言えなかったんです。今度のことも身からでた錆と言われそうで。青井様だけでなく、これまで親切にしてくださってた皆さんに愛想尽かされそうで……」
袂で顔を覆っておいおいと泣き始めた。
「こうなったからには、すべて私に打ち明けてくれ。何も隠さず、これまでにあったことを。いいな?」
るいはこくりと頷いた。それから姿勢を正し、気持ちを落ち着けるように胸に右手を当てた。その手を膝に置いてからおもむろに口を開いた。
「あたし……庄吉を、旦那を殺してしまったんです」
勢いよく言葉を吐いたるいは目を瞑り、何かに耐えるように唇を噛み締めた。
「どうやって?」
「驚きませんの?」
るいがぱっちりと目を開けて真乃を見つめた。真乃に驚いた風がないのに驚いたらしい。
「何を使って殺したのだ?」
真乃の方は変わらぬ態度で質問を繰り返した。
「な、鍋で頭を叩いて……」
「鍋の大きさは?」
「三人分のお味噌汁作るくらいですから、よくある大きさの……」
「どこで?」
「す、住んでた長屋の店で……」
「それはおかしいな。庄吉の焼死体は店の中ではなく、路地で見つかったということだ」
「ですから、あたしが鍋で頭を叩いて怪我させたから、逃げ遅れて……」
「それでは殺したとは言わない。怪我させただけだ。庄吉殺しの『下手人』は火事だ。鍋殺しというのもなかなかオツだが、その細腕で小ぶりな鍋でもって一回叩いたぐらいではそうそう死なないよ。木魚叩くようにポクポク何度も叩いたわけではあるまい?」
「茶化さないでください!」
るいが睨んできた。
「茶化してなどおらんよ。ただもう少し順序だてて話してほしい。時はたっぷりあるしな」
「そうですわね……たっぷり時はありますわね……でも、ここでのんびりしてて良いのかしら」
真乃は辺りを上から下まで見回した。
「ここを抜け出す機会はすぐにやってくるさ。誰かが食事を持ってくるだろう?」
真乃の言葉にるいは不審の目で答えた。
「食事はつい先ほど片付けられました。今日は朝と夜の二回。どちらもお粥だけでしたから、青井様はきっと足らないと仰るわ」
「では明日の朝の食事時に決行しよう。外でもっと食べごたえのあるものを食べるためにね。あんたの籠り日も近いしな」
「そうでした!ああ嫌だ。明日か明後日には……だからかしら、馬鹿なことばっかりして、自分で嫌になっちゃう」
るいは情けなさそうな顔になった。
「懐紙はこれだけあるから、もし明日の朝始まってもここを出るまでなんとかなる」
真乃は懐から紙の束を取り出してるいに見せた。
「いつもそんなに持ち歩いてらっしゃるんですか?」
るいが驚いていた。
「なにかと便利なのでな」
実のところ、るいの「お客」が近いから万が一のためにと多めに懐に入れたのだが、そのことは伏せておいた。端切れも数枚、袂に入れていた。
「さ、金八長屋が火事で焼けた宵の話を続けてくれ。庄吉は性懲りもなく泥酔状態で帰ってきたと、金八長屋の差配、善兵衛が語っている。鍋で頭を叩こうと思うに至った経緯を教えてくれ」
「……善兵衛さんにお確かめになったのですか?」
「片岡さんが当時深川掛かりをしていた板倉さんに尋ねた」
「片岡様が……そうですか……」
るいはほつれた髪を整えようとしたが、その手が震え始めた。ぐっと息を詰めた。
「前にも言ったと思いますけど、あの人、酔っぱらうと手がつけられなくなったんです。あたしだけが殴られるならまだ我慢もできたけど、あの日、あたしを庇ったおっ母さんにまで手を上げたんです!具合の悪いおっ母さんを平手打ちして、足で蹴ったんです!我慢できなかった……思わずそこに置いてあった鍋を掴んで、おっ母さんを足蹴にするあの人の頭を後ろから……」
るいは鍋を掴んでいるかのように天井に向けて両手をあげると、その手を一気に振り下ろした。顔は手から背けていた。それから震える手で顔を覆った。
「そんな光景を目撃したら、真っ当な女は大抵そうするさ」
真乃の合いの手が耳に入ったようには見えなかった。るいは震える手を膝に戻した。手の下から現れた表情は固い。
「あの人、ばったりと倒れました。頭の所から板の間に血が流れて、あたしもおっ母さんも呆然として……そしたら、火事だっていう声が。あたし、慌てて庄吉を揺すったんです。でもぐったりしていて動かなくて、てっきり殺してしまったかと……おっ母さんは落ち着いてました。庄吉の口と鼻に手をかざして、息してるから死んでないって。それ聞いてあたし逃げなきゃって。火事から逃げようと思ったんじゃないんです。あの人から逃げなきゃと思ったんです!息を吹き返したら、きっとあたしもおっ母さんも半殺しの目に遭うと思って……火事は好都合だって……」
るいは当時の自分に怯えている。真乃はそう思った。
「おっ母さんを抱えて外に出たら煙たかったし、火がそこまで来てるのがわかりました。けど、火よりあたしは庄吉から逃げることしか考えてませんでした。必死に火除け地まで逃げたら、善兵衛さんに庄吉はどうしたと聞かれて、その時になって『しまった』と思いました……」
「……それで?」
「それで……誤魔化さなきゃ、そのためには探しに行かなきゃと、金八長屋に戻るふりをしました。誰かが止めてくれることを願ってました。本当に探しになんか行けません。見つかったらあたしが殺されるかもしれないんですもの」
るいの目は遠くを見つめていた。
「願ったとおり、善兵衛さんが無理だと引き留めてくださいました。その時には何で泣いたのかわからなかったけど、あとから振り返ると、ほっとしたからです。庄吉は死んだと思って……あたしがやったこともばれないと思って……」
るいはそこで額に手の甲を当てた。頭痛がしてきたのかもしれない。
「火事のあと陰口を叩かれたこともお聞きになってますよね」
真乃の方は見ずにるいが尋ねてきた。真乃はただ頷いた。
「あの陰口が聞こえてきた時は、生きた心地がしませんでした。誰かが一部始終を聞いてたんだと思いました。あたし達が住んでた店の片方は空いてて、反対側に住んでる人はいつもいない頃合いだったから、そんな人、いないだろうと思ってたんですけど、運悪くあの時に限って誰かが近くにいたのかなって……善兵衛さんが優しい言葉をかけてくださる度にいたたまれなくて、もう……」
またるいの目から涙がこぼれ始めた。
「陰口を言いふらしてた同じ金八長屋に住むおちよさんと喧嘩したのだって、おちよさんに腹をたてたからじゃなくて、あとから思えば、あたし自身が自分のしたことを悔やんで苛立ってたから、なんです。人って不思議ですね。なんで自分に腹を立ててるのに、相手に腹を立ててるって思ったのかしら。あたしだけかしら」
るいは独り言のように呟いた。
真乃はるいの言葉に昔を思い出していた。
自分をわかってくれないと母親に腹をたてていた自分。あの腹立ちには母親の思うような子供になれない自分への苛立ちもあったと、今では解っている。
「あんただけじゃないだろう。ひとは皆、そんなものかもしれない」
真乃の後押しにるいは少しほっとしたようだった。
「引っ越そうと思ったのは、隣に住んでた三治さんが陰口の元だとわかったからです。三治さんは毎日八つ過ぎ(午後2時頃)にお蕎麦の屋台引いて出掛けてたんですけど、あの日に限って出かけるのが遅かったんですって。あたしったら、いつもいない頃合いだから、てっきりいないと思い込んでて……今回とおんなじで、脅されました。陰口を黙らせるから一緒になってくれって。庄吉みたいな乱暴者じゃないとは思いましたけど、脅されて一緒になるなんて耐えられなかった。毎晩、火事の夢を見そうで……それですぐに善兵衛さんにお願いして浅草寺の方へ引っ越しました。三治さんには少しでしたけど手持ちのお金を渡して、これきりにしてくださいと言い置いて。それから一生懸命働いて、松三郎と出会って、大貫屋の旦那様と出会って……おっ母さんは死んでしまったけど、ちゃんとお医者様に診てもらうことができて、最期は眠るように息を引き取って、供養もできて。あたしにとって大事な人たちと出会えて、穏やかな毎日を過ごせて……すっかりいい気になってた……」
るいは途中からぼうっと格子の外の灯火を見ていた。真乃も灯火に目をやった。
「おるいさん、打ち明けた相手が悪かったな。そんな程度で因果だの悪運がついて回ると言うなら、私はとうに地獄に落ちてるよ」
るいがやっと真乃を見た。
「でも青井様はお武家様ですし、お斬りになった相手は罪人や悪人でしょう?」
「すまんが、そなたの嘗ての旦那も私には悪人に思えるぞ。根っからの悪人でなくとも、酔っぱらった時だけといえども、自分の女房と義理の母親に正当な理由無く暴力を振るうのは私に言わせれば、立派な罪人だ」
るいの目がまた潤んできた。
「あの貧相な浪人はどこまで知っていたのだ?」
「あたしが今言ったことのほとんどです。三治さんからあたしがまだ茶屋勤めしてた時に聞いたんだそうです。今頃になって脅しに来たのは、旦那に囲われて良い暮らししてると思ったから、ですって。引っ越しして暫くはびくびくしたり身構えてたけど、あれから五年もたって、もう大丈夫だと思った矢先ですよ。てんもうかいかい……とか言うんでしたっけ?」
「それを言うなら『天網恢恢疎にして漏らさず』だが、この場合、それはちょっと当てはまらないぞ。繰り返すが、あんたは庄吉を殺していない。直後に火事が起きたのが庄吉の不運だ。ま、私からしたら、自業自得だがね。庄吉は店から自分の足で出ている。動けたのだ。あんたが気に病むことはない。それどころか我慢していたら、そのうちあんたか『おっ母さん』が大怪我を負うか、殴り殺されていたかもしれない。
これは剣術の師匠の受け売りだが、大抵のことは起こるべくして起こるものだ。一つ条件が違っていればこんなことにならなかったのに、どうしてこんな廻り合わせになったのかと思うような物事は、起こるべくして起こっているのだよ。個々の人の思惑とは別にね」
るいがすがりつくような目を真乃に向けてきた。
「あの火事で亡くなった方が何人もいたのに、あたし、火事が起きてよかったという気持ちがあるんです。それでもそんなお言葉をかけてくださいます?」
「すべての元凶は庄吉にある。例えあんたに非があったとしても、明らかに自分より弱い人間に暴力を振るうのは卑怯者のすることだ」
「我慢してたのが馬鹿ってことですよね……」
「身一つならまだしも、病気の母親を抱えていては逃げ出すのも難しかったろう。何より思うだけなら罪にならないぞ。そんなことで罪に問うていては、この世に罪に問われない人間がいるかどうか怪しい。それにあんたは自分の心を突き放して見ることができている。なかなかできないことだ。それが出来ているなら、例え過去に過ちをおかしていたとしても、二度と繰り返さないさ」
るいは泣き笑いの顔になっていた。
「そんなお言葉、嬉しくて、嬉しすぎて……女とわかってても惚れるじゃないですか」
るいは本当に泣きながら笑っていた。
「前にも同じことを言われたことがあるな。私が女ゆえ、女がかけてほしいと思う言葉をかけられるのだろう。皮肉なものだな」
「そうですわね……そういうことですわね」
るいがいつもの笑顔を見せた。
地下牢で真乃が初めて見たるいの心からの笑顔だ。全て打ち明けたことで、少しでもるいの心が軽くなったことを願う真乃だった。
「嫌なことを思い出させるが、八代さんと貧相浪人を一刀両断にした奴の顔は見たか?」
途端にるいが首をすくめて身震いした。
「頭巾を被っていたので、見えたのは目だけですけど、切れ長の目でした。冷たくて厳しかった。見据えられただけで震えました……」
言いながら、るいは自分で自分の肩を抱いた。
「そうか。真光寺へは貧相浪人に金を渡すために行ったんだな?いつそんなやり取りをしたのだ?場所を指定したのは奴か?」
るいは最初は頷き、次に首を横に振った。
「やり取りは一度だけです。日時も場所も、決めたのはあたしです。それなりに人が集まってる方が目立たないと思って……一昨日の、青井様がお出掛けになった後で、文を小さく畳んで垣根に忍ばせたんです」
大和守の上屋敷から戻ってきた時にすれ違った浪人の様子を真乃は思い出した。機嫌が良さそうだったのは、るいの返事を手に入れたからだったのだ。あの浪人が垣根に隠していた文を取ったことに、八代は気づかなかったということだ。
仕方ないといえば、仕方のないことである。八代が気にしていたのは刺客であり、真乃もあの浪人のことを事前に話してはいなかった。
「八代さんはあの場所へあんたについて行ったのか?」
るいの顔が苦しそうに歪んだ。
「追いかけてくださってたなんて知りませんでした。枝折戸とは反対の、垣根が脆くなってる所からそっと出たんですもの」
真乃はそもそも垣根の高さが防犯の役に立たないと、細かく調べていなかったことを悔いた。同時に八代の用心棒としての力量に感じ入った。真乃には何も言わなかったが、あの浪人が垣根でやったことには気づいていたのかもしれない。
「あの薄汚い浪人にお金を渡した直後にあの連中が現れて、同時に八代さんも姿を見せて、あたしの前に立ちはだかってくださって……」
るいはそこで言葉を切り、両手で顔を覆った。手の下から嗚咽が洩れてきた。
「あんたを拐かした連中は切れ長の目の侍の他に何人いたのだ?」
少し間をおいて真乃は尋ねた。
「全部で五人です。二人は駕籠かきで、後の三人が頭巾を被ったお侍。あの……あの刀を抜いたお侍が、ひょっとして松三郎の?」
「おそらく」
るいが唇を噛み締めた。
「あたしったら、松三郎の仇を目の前にして気づかないなんて!」
「そもそも会ったことが一度もなかったではないか。それになにより、あんたが敵う相手ではない。仇討ちは私に任せろ」
さらりと請け合った真乃にるいが目を輝かせた。手をついて深く礼をした。
「ありがとう存じます。あたし、手伝いますから、できることがありましたら、なんでも仰ってくださいまし」
「そやつらは真光寺門前で貧相浪人とあんたが会うことを事前に知っていたとしか思えないんだが、貧相浪人はどんな様子だった?五人の内の誰かを知っている風はあったか?」
「あたしと同じように驚いてましたし、『何の用だ』と言ってましたから、あの中に知り合いがいたとは思えませんわ」
「では、あんたに絡む気配にあの浪人を見張っていたのだろうな……」
鐘の音が三つはっきり聞こえた。宵の五つ(午後八時頃)を知らせるための捨て鐘だ。
本所横川の鐘の音だろうと真乃は思った。間違いなくここは本所浜町にある大和守の下屋敷である。
〈余計な作者の呟き〉
現代の医学的知識からは、庄吉が頭に受けた一撃&その時の転倒で、火事がなくても後日亡くなった可能性がありますが、庄吉の日頃の行状や、鍋を振り下ろしたのも母親を助けるためだったとか、本人も深く悔いているとか、るいに情状酌量の余地がた~~~っぷりありますので、もしも現代において傷害致死で裁かれたとしても、執行猶予付きの軽い刑罰で済むことでしょう。(刑法についてはよく知りませんけれども)




