第二部 (十)
実のところ、真乃に大した策があるわけではなかった。自分の勘と腕を信用するしかないと覚悟を決めていた。
楠田が助太刀を買って出たのも断った。
八代を失ったことは大きな痛手だった。八代ならば、真乃は助太刀を頼んだからだ。危険を承知の用心棒にあてはめるのはお門違いかもしれないが、松三郎の下手人は、今や真乃にとって八代の仇でもある。
要求通り一人で行くのには、用心棒としての矜持もあった。
ただ、片岡が言ったように数十人もの相手と戦うことにはならないと考えていた。るいの拐かしと同様、真乃の対応は、大和守の家中が行うと思うからだ。
一万石の小藩が抱える家臣の数はしれている。しかも、何かをやろうとする傍ら、である。
そこに勝機があると真乃は思っていた。
もちろん気にしないといけないのは、数より質である。松三郎と八代を斬った剣士を含めた複数名との対決となると、真乃一人で勝てる自信は無かった。
それでも後へ引かないのは、剣士として生きることを選んだからだ。
――この難局を乗り越えることができなければ、私に生きる道はない。おるいさんはなんとしても救い出す。自分がどうなろうとも、最後まで盾になって逃してみせるさ。
指定された時間になるまで、真乃はしっかり食事をとり、昼寝し、心静かに薪を割り、嵐に備えて自身の力を蓄えることに勤めた。
ふとした時には、御屋形様の家老がわざわざ大和守の家中を隠れ蓑にして船で運ぶ荷とは一体何なのかと、企みのことに思いをめぐらせたりもした。
そうした心身の弛緩と黙考を繰り返し、いよいよ出かける準備をしようとした時、真乃の戦に向けた準備は思わぬ客人に邪魔された。
かよに呼ばれて濡れ縁に出ると、そこに思い詰めた顔をして斉藤岩五郎が立っていた。怪我の療養の間、楽をしていたわけではなかったらしく、前よりやつれて見えた。
そんなやつれた姿で今頃何しに来たんだと冷めた気分で訝しんだ真乃だったが、「これは斉藤殿。傷は治りましたか」と、当たり障りなく挨拶した。
岩五郎は真乃の言葉になぜか顔を赤らめた。
「はい。ここに参った初日に受けた傷はとうによくなっていたのですが、その……」
真乃は放っておくといつまでたっても話が終わらない気がして、話を促してさっさと切り上げることにした。
「せっかくお越しいただいたが、用心棒をするおるいさんはいませんぞ。私はというと、ゆっくりお話を伺いたいが、これから出掛けねばなりません」
「存じております。某の代わりに用心棒をしていた八代殿は斬り殺され、おるいさんは拐かされたとか。相模屋から聞きました」
あのお喋りめと、真乃は心のなかで相模屋を罵った。
「それで?」
ついぞんざいな聞き方をしたが、岩五郎は気にしなかったようで、
「その八代殿を斬った下手人は、ま、松三郎殿を斬った下手人と同じだと聞いたのですが、誠でございますか」
と、切迫した顔と声で尋ねてきた。これには真乃も驚いた。
「斉藤殿は松三郎殿をご存知だったのですか」
岩五郎はまた顔を赤らめ、今度は下を向いた。
「いえ、知り合いという程のことは……何度か見かけただけで……金がないので客にもなれず……」
あ、そういうことかとやっと真乃は合点した。
たまたま腕っぷしの強さでも真乃は相模屋の一番手だったからあまり気にしていなかったが、相模屋は昵懇の大貫屋の妾を守る用心棒に一番間違いの起こらない選択をしていたのだ。
真乃は今まで気がついていなかった自分の間抜けぶりを内心で笑った。
「貴殿が婿養子に乗り気でないのは、そういうことでしたか。なるほど」
岩五郎は耳まで赤くなって更に深く俯いた。
「松三郎殿の突然の訃報は堪えたでしょうな」
岩五郎の肩が震えた。
そうすると、療養が長引いたのは恋煩いかと、真乃は先ほどの岩五郎の言い淀みにも納得した。
「情けないことですが、暫くは物が喉を通りませんでした。何も食べる気がせず、毎日泣き暮らしておりました。挨拶しかしたことはありませんでしたが、置屋の者に好きな相手に請け出されたと聞いて、陰ながら幸せを願っていたのです。それなのに、あ、あんなことに……」
この男に金があったら、松三郎の運命は大きく変わっていたのだなと、真乃は死に顔しか見たことのない若衆の人生を思いやった。しかし長く感傷に浸ってはいられない。
岩五郎が顔を上げると、目が赤くなっていた。
「青井殿が立ち向かう相手が松三郎殿の敵ならば、微力ながら某、助太刀いたしたいと思い、今更ながらここへ参りました。どうか某に手助けさせてくだされ。この通りでござる」
岩五郎はその場に土下座した。
「某にもう少し剣術の才があったなら、自分で松三郎殿の仇を打ちたいと思うところです。ですが、この腕では一矢も報いることができない。情けない……」
岩五郎は手で目を擦った。涙が溢れたらしい。
「……わかりました。手伝っていただきましょう」
岩五郎が顔を上げた。決意の漲る顔だった。これまで見た中で一番剣士らしい顔つきだった。
「忝なく存じまする。なんなりとお申し付けくだされ」
岩五郎の決意に真乃はぼんやりと考えていたことが明確になった。それで行こうと決めた。
「では、まずは湯島へご足労願います。これから一筆書くので、それを持って湯島天神裏の宮芝居の役者達が住む小屋を訪ね、そこで寝起きしている『井筒のお清』こと清吉を捕まえて私の文を読み上げていただきたい」
「いずつのおせいことせいきち……ですか?」
「宮芝居で馬の脚とか狸をやってる自称名女形役者です。嘗ては美人局で荒稼ぎしていた奴ですが、一応心を入れ換えたことになっています」
「青井殿はそんな人物とお知り合いなのですか!……信頼できるのですか?」
岩五郎が至極当然の疑問を投げてきた。
「仲間を売って自分だけ助かったような狡猾な奴ですが、父の青井真右衛門が命を助けてやった恩人なので、青井家の者の言うことは聞きます。聞かないと命が無いとわかってますからな」
真乃の説明に岩五郎は半信半疑の風だった。
「斉藤殿を見たら、きっと小娘のような身振り手振りに言葉遣いをするでしょうが、くれぐれも騙されないように。中身はそこらの破落戸より遥かに肝の据わった油断ならない野郎ですよ」
敵が指定してきたよねやはこじんまりとした船宿で、真乃が着いた時、客は一組いるだけだった。
見張っていたようで、到着してすぐに身なりのきちんとした侍が五人現れた。
五人とも相当緊張していた。中には元服間もない、まだ十代に見える若侍もいた。皆、大和守家中だと思われた。
真乃はこの侍達と斬り合いたくはないと思った。間違いなく真乃の圧勝だ。読みどおりではある。頭にまたあの忍びあがりの男の言葉が浮かんだ。
――この連中も捨て駒なのだ。
「船でどこかへ連れて行くのだろう。さっさと案内してくれ」
真乃は懐手で五人をねめつけながら言った。
十代の若侍は真乃と目があった瞬間に震えだした。
五人は船宿を出ると真乃から一間近く離れて前と左右に一人ずつ、後ろに二人の陣形で取り囲み、屋根船が待つ桟橋へと進んだ。
腰の物を寄越せと言われると思っていたのにそんな素振りはなく、五人は真乃の前後に別れただけで屋根船に乗り込んだ。真乃はそのうち三人と共に小屋部分に腰を落ち着けた。
弦側を塞いでいるのは武士用の障子ではなく町人向けの簾だった。灯をともす刻限では障子より簾の方が外側に中の様子を知られず、良いかもしれない。
船尾で一行を待ちうけていた四十くらいの船頭は、丁寧に真乃と五人に辞儀をした。五人と知り合いのようだった。
船はゆっくりと桟橋を離れ、やがて川を下っていく感覚があった。
行き先は十中八九、本所にある大和守の下屋敷だろうと真乃は考えていた。
田安家の下屋敷は船で乗り付けるのに一番都合が良いが、根来という家老が田安家所縁の場所を使うわけがない。
大和守下屋敷は本所にあり、小名木川にも近い。その上、下屋敷には藩主のご家族や親族はおらず、常駐しているのは藩士だけと聞いていた。
万が一悪事が発覚しても藩士だけなら、藩主は言い逃れができる。
そう考えて真乃にはやるせない思いがつのってきた。
これから真乃が対峙する面々は、上からの指図で動く駒に過ぎないのだ。なるべく穏便にことを片付けられればそれに越したことはない。
水音はそんな真乃の気持ちに添うように、眠りを誘うような規則正しさと穏やかさだった。
船は途中で向きを右、左と二度変え、桟橋を離れてから半刻近くたった頃に動きを止めた。
「腰の物をこちらに渡していただき、目隠しをしていただく」
真乃と一緒に小屋内にいた三人の中で最年長の侍がやっと口を開いた。緊張のあまりか、声がひっくり返りかけていた。慌てて侍は咳払いをした。
真乃はくすりと笑ってしまったのだが、同僚の二人は固い表情のままだった。それも無理はなかった。実際に二刀を受け取り目隠しする役は彼等だったのだ。
一人が襷を懐から出し、膝行で真乃に近づいて目隠しをした。もう一人が真乃から二刀を受け取った。
「人質を取られているのだ。こんな所で余計な真似はせぬよ」
真乃は目隠ししようとする手も二刀を受け取った手も震えていることに気づいてそう言った。
真乃の武芸の腕前は相当高く評価されているらしい。噂の常として、色々誇張されているのだろう。
船から上がり、一行は束の間歩いた。真乃は肘を押されて進んだ。
やがてぎいと木が軋む音、門が開く音がした。
「お進みください」
いたって丁寧な言葉遣いである。
目隠しされていても、人の気配はある程度感じることができる真乃なので、辺りの様子が皆目わからないということはない。
「そこでお止まりください」
真乃が歩みを止めると目隠しがはずされた。目の前に式台があり、視界の端から端まで平屋が広がっていた。
屋敷の奥の方に人が集まっている気配がある。
式台にぞろぞろと六人は上がった。
屋根舟の中で声がひっくり返りかけた侍が先頭に立ち、一行は平屋の奥へと進んだ。
広縁に出て二度角を曲がったところに一際大きな座敷があった。
「ここで暫しお待ちいただく」
先頭を歩いてきた男はそう言うと、真乃の回りに四人残して更に奥の方へと幅四尺の広縁を進んでいった。
真乃は座敷を見回した。
襖には金箔を施した花鳥風月の絵が描かれていて華やかだったが、床の間を含めて部屋の何処にも飾りや調度類がない。
あちこちに人の気配は感じるし、緊張感はあるが、殺気は感じない。不思議な感覚だった。
予想外の状況に真乃は少し戸惑っていた。と、突然足元が傾いた。
咄嗟に真乃は人のいない方の隣の畳に避けた。ところがその畳も足を置いた途端に傾いた。
罠は二重に仕掛けられていたのだ。
畳の端を持とうと思えば持てたが、真乃は素直に下へ落ちていった。底に板が見えたからだ。さして高くはない。




