第二部 (十二)
地下牢は思いの外冷えた。隅にある蓋付きの用足し用の穴の様子からして、土の上に板を敷いただけの造りらしいが、薄い板の下は石ではないかと思うような固さと冷たさだった。
そして寝具は誇張無く煎餅並みの厚さの布団一組しかない。
真乃は誰か来たらもう一組布団を寄越せと言うつもりだったが、誰も現れないまま夜が更けていった。
全くの放ったらかしだ。
仕方なく真乃とるいは板壁にもたれて煎餅敷き布団を二つ折にした上に二人並んで座り、煎餅掛け布団にくるまった。
るいが首まで布団にくるまってまもなく、楽しげに小声で喋り始めた。
「昔ね、おっ母さんとこうやって一つ布団にくるまって寝てた時期がありますの。その日にあったことや聞いたことをなんでも話して、笑ったりホロリと泣いたりしてるうちに寝入って……」
「そうか。この格好は良い思い出に繋がってるのか」
「町奉行所与力のお嬢様にはこんな貧乏くさい思い出ありませんわよね」
るいの問いかけに、真乃も思い出を語った。
幼い頃の話となると、源二郎の名前が出てくる。
そこから話は自分は料理が苦手だが、源二郎は料理好きなこと、殉職した源二郎の兄のことへと流れた。
周りに乳兄弟の真乃と源二郎は、二人とも変わり者と見えているだろう。似ている所もある二人だ。
だが二人を育てた芳乃にとって、源二郎は「良い子」で真乃は「悪い子」だった。
真乃は頭に甦りかけた母親の姿を追い払った。
「……では、源二郎様はお兄様がお亡くなりになって、お家を継がれることになったのですか」
「押し込まれた家の者を庇ってのことだった。同心が捕物に所持するのは刃引きした刀だから、相手に致命傷を与えることができず、防ぎ切れなかったのだ」
「なんてこと……そんなお優しくすぐれたお方が……いえ、そんなお方だからこそ、ですわね。嫌な世の中。松三郎といい、神様は何をご覧になっているのかしら」
「全ては人の問題だ。私なりに僅かでも、善良に地道に生きている人々の手助けができたらと思っている。烏滸がましいかもしれないが」
「そう言ってくれるお武家様が一人でもいらしてよかった……」
「私だけではないぞ。片岡さんも悪事を黙って見過ごせない武家の一人だ」
真乃が気を利かして言った一言にるいの返事はなかった。すぐに寝息が聞こえてきた。
劣悪な環境の割にはすっきりした気分で目覚めた真乃は、すぐに辺りの気配を窺った。
淡い光が格子の向こうに幾筋か差し込み、微かに鳥の声が聞こえた。
灯火はとうに消えていたが、幾筋かの光でも暗闇に馴れた目には十分様子が見て取れた。
るいは真乃の肩に凭れてまだ眠っていた。前夜はほとんど眠れなかったというから起こすのも気がひけ、真乃は身動ぎもせず、気だけを研ぎ澄ませた。
不思議なほど辺りに人気がない。
――昨夜から今朝にかけて何らかの動きがあったはずの、某家の家老と大和守家中の企みはどうなったのか。読み違ったとは思わないのだが……
肩にかかっていた重みが消えた。
横を見ると、るいが不思議そうな顔をして真乃を見ていた。それから「あ」と口を開けた。
「嫌ね。寝ぼけてここはどこだろうって思ってしまったわ。青井様、おはようございます……ですわよね?」
「おはよう。とっくに朝になってるよ。さて、何時頃に粥をもってくるかだ。昨日は何時頃だった?」
「五つの鐘が鳴った後でした」
「五つか……微妙だな。食器を取りに来るのは?」
「四半刻くらい後です」
「そっちでやるか」
できるだけの身支度をしようと、二人は蒲団から出て用を足し、髪のほつれや着崩れを直した。
隅には蓋付きの桶があり、中に水が入っていたから、二人はそれぞれ手と顔を洗い、口に水を含んだ。
人質に対し、それなりに気をつかっているようだ。
寒いので、朝粥が来るまで二人はまた蒲団に潜り込んだ。
その格好で朝粥を待つ間に、真乃は脱出する策についてるいに説明した。
聞いている間にるいは目を丸くしていた。
「本当にそんなことができるんですか?それでここから出られるんですの?」
「この格子の中から出ることはできる。その後はかなりの騒ぎになるだろうが、昨夜見た連中程度なら、多少増えてもなんとかなる」
「あの切れ長の目のお侍が出てきたらどうするんですか」
「向こうに殺気があれば、戦う」
迷いも躊躇いも無い真乃の言葉に、るいは苦いものを口にしたような顔になった。
「怖くありませんの?相手が強かったら、もしも卑怯な手を使ってきたら、こ、殺されてしまうかもしれないのに……八代様のように……」
るいが布団の中で震え始めた。
「全く怖くないといえば、嘘になる。だが、なんのための剣術だ?こんな時に使える者が使わなくてどうする」
「あのお方は強かった……あっという間にお二人は斬られたんです。もしも青井様の身に何かあったら……」
「いざという時の覚悟無しに用心棒稼業はしていない。第一、あんたではないか。松三郎の仇を打ってほしいと頼んできたのは」
「それはそうですけど、もっと敵討ちらしく、一対一で……こんな敵地の中じゃ絶対に不利じゃないですか」
「意外に古風だね」
「古風とかの話じゃありません!」
「しいっ」
真乃はるいの口を塞いで耳をすませた。
足音が幾つも聞こえた。上に人が集まってきている。何人もが小声で話しているようなざわめきが聞こえてきた。何かあったとみえる。
るいも上の様子に気づいて天井を上目で見た。
真乃はそっと立ち上がった。僅かでも何か言葉が聞き取れないかと思ってのことだ。目付という声が聞こえたと思った。
「……御家老お一人が?」
「……そんな!……」
はっきり聞き取れたのはそれだけだった。
間違いなく昨夜何かあったのだ。
真乃は読みどおりだったことにほくそ笑んだ。騒ぎになっているということは、良い結果ではなかったということである。
――片岡さん達、うまく仕留めてくれたろうか。
邪魔はできても、尻尾を捕まえ損ねることはありうる。
昨夜と同様、鐘がはっきりと聞こえた。五つの鐘だ。
上のこの様子では粥を持ってくるのは後回しかもしれない。忘れられては困る。そう思った直後に足音と気配が近づいてきた。
「粥が来るぞ」
真乃の言葉にるいが急いで布団を畳み始めた。
「そのままでよいのではないか。どうせすぐにここを出るし」
「駄目ですよ。きっちりしてると見せないと。お武家様に守るべきものがあるように、あたしのような下々にも守るべきものがあるんです」
「さようか。どうやら『お客』はまだのようだな」
るいはピタリと動きを止めた。少しの間を置いて真乃に振り向けた顔は安堵の顔だった。
「大丈夫です。よかった……」
この時、上の物音が静まった。そして人々は静かに移動し始めた。どこへ行くのかと動きの先を窺ったが、この屋の外へ出たらしいとしか、わからなかった。
るいがきっちりと四隅を揃えて布団を畳み終えたと同時に引き戸が開き、燭台を持った侍一人と膳を持った小者二人が入ってきた。膳の上には木製の湯飲み、椀に小皿が乗っていた。
「粥に漬物付きか。まぁまぁだな」
侍が燭台を取り替えてから、鍵を出して戸を開けた。四つん這いにならないと通れない大きさの戸だ。
小者二人は交互に素早く膳を中へ入れ、再び戸を閉めた。まるで獰猛な野獣がいるかのような緊張感と素早さだった。
その間、真乃は片胡座に片肘をついて三人を眺めていた。そそくさと三人が出ていくのを横目に膳へ手を延ばした。椀の中の匂いをかぐ。小皿の上の漬物へも鼻を近づけた。
「ま、こんなもんだろうな」
湯飲みの中も白湯だと確認し、真乃は膳をるいの方へ動かしながら言った。
「念のため、私が口に入れるまで食べないように」
るいが目を丸くした。
「あたしたちを毒殺するかもしれないと?」
「外の成り行きによっては、それもあり得ると思うのでな」
真乃はもう一つの膳の上の物も一通り匂いを嗅いでから、粥を一口、口に入れた。
「大丈夫だ」
るいに向いてそう言うと、残りを一気に喉へ流し込んだ。
「青井様、いくらお粥だからって飲んでしまわれるとは……」
箸を持ったるいが呆れた顔を見せていた。
真乃は一向に気にせず、漬物、白湯と膳の上の物を全て胃の腑に納めると、おもむろに立ち上がった。
格子の前まで行くと、上を手で触った。格子は壁にはめてあるのだが、上に枠が少しばかり内側にはみ出していた。
そこから天井までは立板が張り巡らされており、格子の横には巾一尺近い柱があった。その部分もまた少し出っ張っている。
その柱から部屋の隅までは三尺ほどだ。
これならいけると踏んだ真乃は振り向いた。
るいはまだ粥を啜っていた。
「もう少ししたら私は上へ上がるからな」
るいが箸を置いた。
「どうやってそんな掴む物もない所に上がって落ちないでいられるんですの?」
「これならやりようがある。力はいるがね。あんたの演技も大事なんだ。先ほど注意したこと、頼んだぞ」
「決して上を見ないこと、でしたわね」
真乃は耳をすませた。何か聞こえたと思ったからだ。そろそろ外で何か起こることを期待していた。だがはっきりしたことはわからなかった。
――大丈夫だろう。
真乃は心を決めて時を待った。
やがてまた微かに木が軋む音がした。人が段を降りてくる。
真乃は縦格子の中程にある横木に足をかけて枠の上にあがった。僅かに出ている柱を掴んで横へ移動する。足を広げると枠と隅と柱でなんとか自分を支えることができた。下を見ると、るいが口をあんぐり開けて真乃を見ている。
真乃は来るぞと声をかけた。
るいは慌てて口を閉じて視線を下に向けた。
途端に戸が開く音がした。二人分の足音だ。
「あれ?」
「どうした」
「侍姿の女がいません」
「なにいっ!」
ばたばたと音がした。
「こら、そこの女!もう一人はどこへ行った!」
「『そこの女』って、あたしにはちゃんとるいっていう名前がありますのよ。最初にも申し上げたじゃありませんか。物覚えよくないのかしら」
「なにをっ!どこかにいるはずだ。お前入って確かめろ」
「確かめるも何もこっから見渡せやすよ。いませんぜ」
「鍵がかかっているのだぞ。どこから出たっていうんだ!」
ぎいと潜り戸が中へ押され、小者が四つん這いで中へ入ろうとした。その頭をるいが椀で叩いた。
「何しやがる!」
腹を立てた小者が潜り戸を大きく開けて一気に中へ入ってきた。
その刹那、真乃はその首から肩の辺りに飛び降りた。
ぐえっという声をだして小者は伸びた。
侍が慌てて刀を抜いた時には、もう真乃は小者が背中に指していた木刀を潜り戸から侍に突きつけていた。
「言うことを聞くなら、命だけは助けてやる」
頭を低くして潜り戸を外へ抜けながらも真乃の木刀はびくともせず、侍の喉元へ狙いを定めていた。
侍が構えた刀は切っ先が震えている。
「ぼ、木刀で何をほざくか!」
ゆっくり立ち上がる真乃に侍が斬りつけてきた。が、次の瞬間には真乃の木刀が侍の首の付け根を打っていた。
侍の刀は真乃の左側へ素通りしている。その刀がゴトッと床に落ちた。
真乃は素早く落ちた刀を拾い上げると、刃筋を確認して軽く振った。侍が倒れていったのに目を向けることもなかった。
「まぁまぁだな。使えないことはあるまい」
振り向くと、るいが潜り戸を出て立ち上がるところだった。
「死んでしまいましたの?」
侍の方を見ながらるいが言った。
「気を失っているだけだ。急ごう」




