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第6話 うちに来ませんか?

 一条柚月との仕事が始まって。


 二週間。


「確認しました」


 澪が資料を閉じる。


「こちらで問題ありません」


「早いですね」


 柚月が言う。


「一条さんの資料に不備がありませんので」


「ありがとうございます」


「事実です」


「それでも、褒め言葉として受け取っておきます」


「はい」


「……」


 優真が。


 二人を交互に見る。


「本当に仕事しやすそうだね」


「はい」


 澪が答える。


「非常に円滑です」


「私も同感です」


 柚月も答える。


「神谷さんとのやり取りは、ほとんど説明が必要ありません」


「必要な情報が整理されていますので」


「それはこちらも同じです」


「ありがとうございます」


「……」


 優真が。


 少しだけ笑う。


「何でしょうか」


「いや」


「またですか?」


「だって」


 優真が二人を見る。


「二週間前より似てきてない?」


「それはありません」


「ありませんね」


「ほら」


「偶然です」


「偶然ですね」


「……」


 優真が笑う。


「もういいよ」


「何がでしょうか」


「何でもない」


 打ち合わせは。


 予定より十五分早く終わった。


「では、次回までにこちらを進めます」


「お願いします」


 柚月がノートを閉じる。


 そのとき。


「そういえば」


「はい」


 澪が顔を上げる。


「今日は一つ、聞いてみたいことがありました」


「案件についてでしょうか」


「いえ」


「?」


「神谷さんについてです」


「私?」


「はい」


 柚月が。


 澪を見る。


「以前は、どちらで働いていたんですか?」


「以前ですか」


「この会社を立ち上げる前です」


「秘書をしていました」


「やはり」


「やはり?」


「資料の作り方や、予定管理を見ていれば何となく」


「そうですか」


「どれくらい?」


「何がでしょうか」


「秘書としての経験です」


 澪が答える。


 そのまま。


 少しだけ。


 仕事の話が続いた。


 前職。


 秘書として行っていた業務。


 現在。


 この会社で担当している業務。


 経理。


 法務。


 総務。


 進行管理。


 必要なら。


 優真の営業資料も作る。


「……」


 柚月が。


 少し黙った。


「どうされましたか?」


「いえ」


「?」


「思っていたより、広いですね」


「現在の担当業務でしょうか」


「はい」


「小規模な会社ですので」


「それにしてもです」


 柚月が。


 優真を見る。


「神谷社長」


「はい?」


「よく見つけましたね」


「澪を?」


「はい」


「まあ」


 優真が苦笑する。


「見つけたというか」


「?」


「いろいろあって」


「いろいろ?」


「そこは長くなるので」


「そうですか」


「はい」


「……」


 柚月は。


 もう一度。


 澪を見る。


「神谷さん」


「はい」


「うちに来ませんか?」


「……」


「……」


「……え?」


 優真が。


 一番先に反応した。


「今」


「はい」


「何て?」


「うちに来ませんか、と」


「……」


 少し離れたところで仕事をしていた。


 陸の手が止まる。


 由奈も。


 ゆっくり顔を上げる。


「……え?」


 由奈が。


 小さく声を漏らした。


 澪だけが。


 柚月を見ている。


「転職という意味でしょうか」


「はい」


 柚月は。


 あっさり答えた。


「待遇については、現在より上を提示できると思います」


「……」


「具体的な金額が必要であれば、正式に計算しますが」


「一条さん」


「はい」


「本気ですか?」


「本気です」


「……」


 優真が。


 柚月を見る。


「そんな即答する?」


「優秀な人材を欲しいと思うのは、当然では?」


「いや、それは分かるけど」


「私は神谷さんを高く評価しています」


 柚月は。


 澪から視線を外さない。


「判断が早い」


「……」


「正確です」


「……」


「複数の業務を同時に管理できる」


「……」


「それに」


 一拍。


「私と仕事がしやすい」


「最後、一条さんの都合じゃない?」


「重要です」


「重要なんだ」


「はい」


 柚月は。


 真顔だった。


「……」


 優真が困ったように澪を見る。


 澪は。


 まだ柚月を見ている。


「一条さん」


「はい」


「評価していただいたことには、感謝します」


「では」


「ですが」


 澪が続ける。


「お断りします」


「……」


 柚月の表情は。


 変わらなかった。


「理由を聞いても?」


「現在、転職を希望していません」


「待遇に関係なく?」


「はい」


「仕事内容も?」


「はい」


「即答ですね」


「検討する必要がありませんので」


「……」


 柚月が。


 少しだけ笑った。


「なるほど」


「申し訳ありません」


「謝る必要はありません」


「ありがとうございます」


「ただ」


「?」


「少し残念です」


「……」


「本当に欲しいと思ったので」


 澪が。


 わずかに目を瞬く。


「そうですか」


「はい」


「……ありがとうございます」


 また。


 素直に。


 そう答えた。


「でも」


 柚月が。


 今度は優真を見る。


「神谷社長は大変ですね」


「俺?」


「はい」


「何が?」


「これだけの人を雇い続けるのは」


「……」


 優真が。


 澪を見る。


「確かに」


「優真さん?」


「いや」


 優真が笑う。


「澪に辞められたら、本気で困るなと思って」


「……」


「会社回らなくなるかもしれない」


「それは困ります」


「でしょ?」


「はい」


「だから」


 優真が。


 少しだけ冗談っぽく言う。


「行かないでね?」


「……」


 澪が。


 優真を見る。


「先ほど」


「うん」


「お断りしました」


「聞いてたよ」


「では、確認する必要はありません」


「そうだけど」


「非効率です」


「……」


「……」


 柚月が。


 わずかに笑った。


「一条さん?」


「いえ」


「何でしょうか」


「先日の話を思い出しただけです」


「先日?」


「必要のない会話でも、悪くないものがある」


「……」


 澪が止まる。


「今のは」


 柚月が言う。


「それでしょう?」


「……」


 優真が。


 澪を見る。


「そうなの?」


「私に聞かないでください」


「でも」


「知りません」


「……」


 澪の耳が。


 少し赤くなった。


 ◇


 柚月が帰ったあと。


「澪さん!」


 由奈が。


 待ってましたとばかりにやってきた。


「何でしょうか」


「引き抜きですよ!」


「聞いていましたね」


「聞こえました!」


「では説明は不要です」


「そうじゃなくて!」


「何でしょうか」


「すごくないですか!?」


「何がですか?」


「だって!」


 由奈が。


 澪の前で両手を広げる。


「一条さんみたいな仕事できる人から、直接『うちに来ませんか』ですよ!?」


「そうですね」


「もっと喜びましょうよ!」


「評価していただいたことは嬉しく思っています」


「それです!」


「?」


「最近の澪さん!」


「私が何でしょうか」


「ちゃんと『嬉しい』って言いますよね!」


「……」


 澪が。


 少し止まる。


「評価されたことを嬉しいと思うのは、自然では?」


「自然です!」


「では問題ありません」


「はい!」


 由奈が満足そうに頷く。


 陸が。


 横から口を挟む。


「でも、待遇上がるって言ってましたよね」


「そうですね」


「どれくらいだったんですか?」


「具体的な提示は受けていません」


「ちょっと気になりません?」


「なりません」


「即答」


「転職する予定がありませんので」


「まあ、そうですけど」


 由奈が。


 にやりとする。


「社長もいますしね」


「……」


「……」


 澪が。


 由奈を見る。


「何ですか?」


「いえ!」


「今、何か別の意味を含めましたね?」


「含めてません!」


「本当ですか?」


「はい!」


「目を見てください」


「無理です!」


「佐倉さん」


「すみません!」


「何やってんだよ」


 陸が呆れる。


 優真は。


 少し離れたところから。


 その様子を見ていた。


「……澪」


「はい」


「本当に行かない?」


「……」


 オフィスが。


 少しだけ静かになる。


「優真さん」


「うん」


「先ほども申し上げましたが」


「うん」


「転職する予定はありません」


「そっか」


「はい」


「よかった」


「……」


 優真が。


 安心したように笑う。


 その顔を見て。


 澪は。


 少しだけ。


 言葉に詰まった。


「……」


 条件。


 給与。


 仕事内容。


 何一つ。


 聞かなかった。


 比較も。


 計算も。


 していない。


 それでも。


 答えは。


 最初から決まっていた。


「優真さん」


「何?」


「確認があります」


「うん」


「仮に」


「うん」


「私が転職した場合」


「……」


「困りますか?」


「困るよ」


 また。


 即答だった。


「会社として?」


「それもある」


「……」


「でも」


 優真が。


 少し考える。


「普通に寂しいと思う」


「……」


「毎日一緒に仕事してるから」


「……そうですか」


「うん」


「……」


 澪が。


 自分の席へ戻る。


「澪?」


「業務に戻ります」


「うん」


「……」


 パソコンを開く。


 画面を見る。


 けれど。


 数秒。


 手が動かなかった。


 会社に必要だから。


 自分はここにいる。


 それだけでは。


 もうない。


 優真がいる。


 直人がいる。


 陸がいる。


 由奈がいる。


 この場所で。


 仕事をしたい。


 ここに。


 いたい。


 だから。


 断った。


 それだけのこと。


「……」


 澪は。


 ようやくキーボードへ手を置く。


 合理的な条件を。


 一つも聞かずに。


 答えを決めた。


 それが。


 以前の自分なら。


 考えられない選択だったことには。


 まだ。


 気づかないことにした。

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