第5話 合理の会話
一条柚月との打ち合わせから。
三日後。
「……早いですね」
朝。
出社した澪は。
届いていたメールを見て、そう呟いた。
「何が?」
コーヒーを持ってきた優真が聞く。
「一条さんから、修正版の資料が届いています」
「もう?」
「はい」
送信時刻。
午前五時十二分。
「……早いな」
「そうですね」
「朝型なのかな」
「それは分かりません」
「まあ、そうだよね」
優真が。
澪の机にコーヒーを置く。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
澪は自然に受け取り。
一口飲む。
「……」
「何?」
「いえ」
「?」
「ちょうどいいです」
「ああ、コーヒー?」
「はい」
「いつもと同じだけど」
「ですから、ちょうどいいです」
「そっか」
優真が笑う。
「……」
澪は。
もう一口飲んでから。
画面へ視線を戻した。
「修正内容を確認します」
「うん」
「優真さんにも共有します」
「お願い」
資料を開く。
「……」
一ページ。
二ページ。
三ページ。
澪の指が止まる。
「どう?」
「問題ありません」
「全部?」
「現時点では」
ページを戻す。
「こちらから昨日送った確認事項も、すべて反映されています」
「仕事早いね」
「はい」
さらに。
資料の最後には。
変更点だけが。
一覧でまとめられていた。
何を変えたのか。
なぜ変えたのか。
確認が必要な部分はどこなのか。
探す必要がない。
「……」
「澪?」
「見やすいです」
「資料が?」
「はい」
澪が。
少しだけ画面へ顔を近づける。
「修正箇所だけを確認できるようになっています」
「いいことじゃない?」
「非常に助かります」
「珍しいね」
「何がでしょうか」
「澪が人の資料見て、そんなに褒めるの」
「良いものを評価しているだけです」
「うん」
「何か問題がありますか?」
「ないよ」
「では」
「嬉しそうだなと思って」
「……」
澪が。
優真を見る。
「嬉しそう?」
「ちょっとだけ」
「仕事が円滑に進むことは、喜ばしいことです」
「そういう意味ね」
「それ以外に何があるのでしょうか」
「いや、ないけど」
「……」
澪は。
もう一度資料を見る。
確かに。
仕事がしやすい。
それだけ。
◇
午前十一時。
オンラインでの打ち合わせが始まった。
『おはようございます』
「おはようございます」
モニターの向こう。
柚月の背後には。
白い壁。
机の上に見えるものも。
パソコン。
ノート。
ペン。
それくらいだった。
『本日の議題は三点です』
「はい」
『まず、昨日お送りした修正版について』
柚月が資料を共有する。
『御社からいただいた確認事項は、すべて反映しています』
「確認しました」
澪が答える。
「一点だけよろしいでしょうか」
『どうぞ』
「こちらの入力項目ですが」
画面を切り替える。
「運用開始後、使用頻度が低くなる可能性があります」
『私も気になっていました』
「……」
『実際の運用担当に確認したところ、月に一度程度だそうです』
「では、常時表示する必要性は低いですね」
『そう考えています』
「必要時のみ呼び出せる形で問題ないと思います」
『同意します』
「では、その方向で修正します」
『お願いします』
「……」
優真が。
二人を見る。
次の議題。
『こちらの確認ですが』
「はい」
『当初、二段階での承認を想定していましたが、実際に承認権限を持つのは一名のみでした』
「でしたら、一段階で問題ありません」
『ですよね』
「はい」
『変更します』
「お願いします」
「……」
さらに。
三つ目。
「こちらですが」
『はい』
「現状のスケジュールであれば、二日前倒しできます」
『私も同じ計算でした』
「では、前倒ししますか?」
『お願いします』
「承知しました」
「……」
優真が。
ついに口を開いた。
「あの」
「はい?」
『はい?』
また。
二人同時。
「……」
「……」
澪と柚月が黙る。
優真が笑った。
「ごめん」
「何でしょうか」
「いや、俺も参加してるよね?」
「もちろんです」
『神谷社長にも確認いただきたい項目があります』
「よかった」
「何を心配しているのですか?」
「二人だけで全部決まりそうだから」
『それは』
柚月が。
少し考える。
『効率的では?』
「そうですね」
澪が即答した。
「そこまで似なくていいから」
優真が苦笑する。
『冗談です』
「一条さん、冗談言うんですね」
『言いますよ』
「ちょっと意外でした」
『よく言われます』
「そうなんだ」
『無駄な会話が嫌いなだけです』
「……」
「……」
優真が。
澪を見る。
「何でしょうか」
「いや」
『神谷さんもですか?』
「必要性のない会話を積極的に行う方ではありません」
『やはり』
「ただ」
澪が。
少し止まる。
「最近は」
『?』
「必要性がなくても、悪くない会話はあると考えています」
「……」
優真が。
澪を見る。
『悪くない会話?』
「はい」
『例えば?』
「……」
聞かれて。
澪は考えた。
朝。
優真と飲むコーヒー。
昼休み。
みんなで食べる昼食。
仕事には。
何の関係もない話。
由奈の。
時々よく分からない発言。
陸のツッコミ。
直人との。
短いやり取り。
「……雑談でしょうか」
『雑談』
「はい」
『必要ですか?』
「……」
以前の自分なら。
即答していた。
不要です。
と。
「業務上の必要性だけで判断すれば、不要な場合も多いと思います」
『はい』
「ですが」
澪が。
優真を見る。
「楽しいこともあります」
「……」
優真が。
少し笑った。
『なるほど』
柚月は。
それ以上。
否定もしなかった。
『では、今度試してみます』
「試す?」
『雑談を』
「……」
「……」
今度は。
優真と澪が。
同時に止まった。
『何でしょうか』
「いえ」
澪が答える。
「雑談は、試すものではないと思います」
『そうなのですか?』
「……おそらく」
「澪がそれ言うんだ」
「優真さん」
「ごめん」
『では、自然に発生するのを待ちます』
「それがよろしいかと」
「……」
優真が。
笑いを堪えている。
「何ですか?」
「いや」
「先ほどから何度も笑っていますが」
「ごめんって」
『神谷社長』
「はい?」
『何がおかしいのでしょうか』
「一条さんも澪も」
二人を見る。
「やっぱり似てるなと思って」
「……」
『……』
澪と柚月が。
互いを見る。
『私は』
先に口を開いたのは。
柚月だった。
『少し違うと思います』
「そうですか?」
『はい』
柚月が。
澪を見る。
『神谷さんの方が、柔らかい』
「……私が?」
『はい』
「どの部分でしょうか」
『今の雑談の話もそうです』
「……」
『私は、不要なものは不要だと考えます』
淡々と。
柚月は言う。
『それで困ったこともありません』
「そうですか」
『ですが、神谷さんは』
一拍。
『不要でも、楽しいなら悪くないと考えている』
「……」
『そこは、私とは違います』
「……」
澪は。
返事をしなかった。
柔らかい。
自分が。
そう言われるとは。
思っていなかった。
◇
「本日の打ち合わせは以上です」
『ありがとうございました』
「こちらこそ」
『次回までの修正点については、明日中に送ります』
「承知しました」
『では』
「はい」
『神谷さん』
「何でしょうか」
『次回』
「はい」
『雑談が発生したら、お願いします』
「……」
「……」
「分かりました」
『ありがとうございます』
通話が切れた。
数秒。
「……」
「……」
優真が。
口元を押さえる。
「優真さん」
「ごめん」
「まだ何も言っていません」
「だって」
「何でしょうか」
「一条さん、面白い人だね」
「そうでしょうか」
「雑談を予約した人、初めて見た」
「予約ではありません」
「でも次回お願いしますって」
「……」
「澪」
「はい」
「仲良くなれそうだね」
「一条さんと、ですか?」
「うん」
「仕事上の関係です」
「それは分かってるけど」
「……」
澪は。
通話の終わった画面を見る。
仕事がしやすい。
考える速度も。
判断基準も。
自分と近い。
けれど。
『神谷さんの方が、柔らかい』
「……」
その言葉だけが。
少し。
残っていた。
◇
昼休み。
「というわけで」
由奈が。
なぜか澪の前に座っていた。
「何がでしょうか」
「雑談しましょう!」
「なぜですか?」
「一条さんに教えるんですよね?」
「誰から聞いたのですか」
「社長です!」
「優真さん」
「いや」
少し離れた席で。
優真が慌てる。
「面白かったから」
「……」
「ごめん」
「それで」
由奈が身を乗り出す。
「何の話します?」
「何でもいいのでは?」
「それじゃ雑談始まりませんよ!」
「では、佐倉さんが決めてください」
「えーっと」
由奈が考える。
「昨日の晩ご飯!」
「鮭です」
「早い!」
「質問されたので答えました」
「もっと広げましょう!」
「広げる?」
「例えば、社長は何食べたんですか?」
「同じものですが」
「そうでした!」
「一緒に住んでいますので」
「そうでした!」
陸が。
横で吹き出した。
「佐倉、お前何がしたいんだよ」
「雑談です!」
「下手すぎるだろ」
「じゃあ陸さんやってください!」
「なんで俺が」
「雑談のお手本!」
「そんなもんにお手本あるかよ」
「……」
澪は。
二人を見る。
何の意味もない。
何も決まらない。
仕事も。
進まない。
けれど。
「……ふふ」
「……!」
由奈が止まった。
「澪さん」
「何でしょうか」
「今、笑いました?」
「笑っていません」
「笑いました!」
「気のせいです」
「社長!」
「うん」
優真も笑っていた。
「笑ってたね」
「……」
「澪さん!」
「佐倉さん」
「はい!」
「昼食を食べてください」
「はーい!」
由奈が。
嬉しそうに箸を持つ。
澪も。
自分の昼食へ戻る。
意味のない会話。
非効率な時間。
それでも。
こういうものを。
悪くないと思える自分は。
一条柚月とは。
少しだけ。
違うらしい。
その違いを。
澪はまだ。
深く考えなかった。




