第23話 離婚届
翌日。
昼休み。
「澪さん、お昼行きません?」
「すみません」
「またですか?」
「今日は少し、用事があります」
「用事?」
「はい」
由奈が。
少し不思議そうに首を傾げる。
「社長は?」
「直人さんと外へ出ています」
「あ、そっか」
「先に行ってください」
「分かりました」
由奈が歩き出す。
けれど。
数歩進んだところで。
振り返った。
「澪さん」
「はい」
「最近、ちょっと変ですよ?」
「……そうでしょうか」
「はい」
由奈が。
じっと見る。
「前より静かです」
「以前から、私は静かだと思いますが」
「そういう意味じゃなくて」
「……」
「なんていうか……考え事してるっていうか」
「少し仕事について考えているだけです」
「本当ですか?」
「はい」
嘘ではない。
仕事についても。
考えている。
ただ。
それだけでは。
ない。
「ならいいですけど」
由奈は。
まだ少し気にしていたが。
「じゃあ、お土産買ってきます」
「必要ありません」
「私が買いたいんです」
「……」
その言葉に。
澪は止まった。
「澪さん?」
「いえ」
買いたいから。
買う。
必要だからではない。
「……ありがとうございます」
「はい!」
由奈が。
笑って出ていく。
「……」
澪は。
その背中を見送った。
自分が。
教えたはずだった。
必要でなくても。
したいからする。
それで。
いいのだと。
「……」
なのに。
自分の結婚だけは。
そう考えることが。
できない。
◇
会社を出る。
昨日の夜。
調べた。
離婚届。
入手方法。
提出方法。
必要事項。
必要なもの。
何度も。
確認した。
「……」
足が。
重い。
ただ。
書類を。
取りに行くだけ。
まだ。
提出するわけではない。
優真に。
話すわけでもない。
なのに。
会社から離れるほど。
胸が。
苦しくなる。
「……」
戻ろうか。
一瞬。
そう思った。
今日は。
やめる。
明日にする。
それでも。
何も問題はない。
「……」
でも。
明日になれば。
また。
理由をつける。
明後日になれば。
もっと。
終わらせたくなくなる。
優真と。
一緒にいる時間が増えるほど。
きっと。
できなくなる。
「……」
澪は。
そのまま歩いた。
◇
離婚届を。
受け取った。
「……」
それだけ。
驚くほど。
簡単だった。
紙。
一枚。
自分たちの結婚を。
終わらせるための。
紙。
一枚。
「……」
澪は。
封筒に入れた書類を。
バッグへしまう。
それだけで。
バッグが。
急に。
重くなったような気がした。
「……」
おかしい。
紙一枚。
ほとんど。
重さなどない。
分かっている。
それでも。
重い。
「……」
会社へ。
戻らなければ。
昼休みは。
まだ残っている。
澪は。
歩き出した。
◇
「おかえりなさい!」
「戻りました」
「はい、これ!」
会社へ戻ると。
由奈が。
小さな袋を差し出した。
「……これは?」
「お土産です」
「本当に買ったのですか」
「言ったじゃないですか」
「そうですが」
「プリンです」
「……」
「澪さん、前より甘いもの食べるようになったから」
「ありがとうございます」
「社長の分もありますよ」
「そうですか」
「帰ってきたら渡してください」
「私がですか?」
「はい」
「佐倉さんから渡せばよいのでは?」
「いいじゃないですか」
由奈が。
にやっと笑う。
「夫婦で食べてください」
「……」
夫婦。
その言葉が。
胸に刺さる。
「澪さん?」
「はい」
「どうしました?」
「……何でもありません」
「本当に?」
「はい」
澪は。
プリンの袋を受け取る。
「ありがとうございます」
「どういたしまして!」
由奈が。
満足そうに席へ戻る。
「……」
右手には。
プリン。
バッグの中には。
離婚届。
「……」
澪は。
自分の席へ戻った。
◇
「ただいま」
「おかえり」
しばらくして。
優真と直人が。
会社へ戻ってきた。
「疲れたー」
「お疲れさまです」
「澪、何か変わったことあった?」
「ありません」
「そっか」
「あ」
澪は。
由奈から預かった袋を見る。
「優真さん」
「ん?」
「佐倉さんからです」
「何?」
「プリンです」
「お、いいね」
「私の分もあります」
「じゃあ今日、家で食べる?」
「……」
家で。
二人で。
「はい」
「よし」
優真が笑う。
「食後のデザートだな」
「そうですね」
「楽しみ」
「……はい」
楽しみ。
澪も。
同じだった。
だから。
苦しかった。
◇
夜。
「これ美味しい」
「はい」
「由奈、いい店知ってるな」
「そうですね」
二人で。
プリンを食べる。
「澪」
「はい」
「そっち何味?」
「カラメルです」
「俺のと違う?」
「優真さんはバニラですね」
「一口食べる?」
「……」
「澪?」
「いただいてもよいのですか?」
「もちろん」
優真が。
自分のプリンを。
澪の方へ寄せる。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
スプーンですくう。
一口。
「……美味しいです」
「でしょ?」
「はい」
「澪のも一口もらっていい?」
「もちろんです」
今度は。
澪が。
プリンを差し出す。
「うん、こっちもうまい」
「そうですね」
「次買うなら、どっちにする?」
「……」
また。
次。
優真は。
当たり前のように。
次の話をする。
「私は」
言葉が。
止まる。
「澪?」
「……カラメルだと思います」
「じゃあ俺バニラにする」
「なぜでしょうか」
「そしたらまた両方食べられるから」
「……」
「効率いいでしょ?」
優真が。
少し得意そうに笑う。
「……そうですね」
澪も。
笑った。
小さく。
「合理的です」
「お、澪に褒められた」
「その程度で喜ばないでください」
「いいじゃん」
「……」
楽しい。
今日も。
楽しい。
だから。
終わらせたくない。
◇
優真が。
先に風呂へ入る。
澪は。
寝室へ入った。
「……」
バッグを。
開ける。
封筒。
昼間。
受け取ったもの。
「……」
取り出す。
中から。
一枚の紙を出す。
離婚届。
「……」
文字を。
見る。
昨日までは。
画面の中にしか。
なかった。
今日。
初めて。
形になった。
契約を。
終わらせるためのもの。
「……」
机に置く。
ペンを。
持つ。
名前。
住所。
生年月日。
必要事項を。
書けばいい。
それだけ。
「……」
ペン先を。
紙へ近づける。
手が。
止まる。
「……」
書けない。
何度。
動かそうとしても。
書けない。
「……っ」
澪は。
ペンを置いた。
胸元を。
押さえる。
「……なぜ」
分かっている。
理由など。
考える必要もない。
終わらせたくないから。
「……」
優真と。
一緒にいたいから。
「……」
澪は。
離婚届を見つめる。
契約を始めた時。
こんなことになるとは。
思っていなかった。
必要だから。
結婚する。
必要がなくなれば。
終わる。
それだけの。
簡単な関係。
そう。
考えていた。
なのに。
「……優真さん」
名前を。
呼ぶ。
本人は。
隣の部屋にはいない。
浴室から。
かすかに水の音がする。
「……」
優真は。
自分を。
必要だと言った。
何度も。
でも。
今。
澪が欲しい言葉は。
それではなかった。
「……」
そのことに。
ようやく。
気づいた。
必要だから。
一緒にいる。
それでは。
もう。
足りない。
「……」
では。
何なら。
足りるのだろう。
答えが。
出そうになる。
でも。
怖くて。
そこから先を。
考えられない。
「……」
澪は。
離婚届を。
封筒へ戻した。
今日は。
書けなかった。
それでも。
捨てることも。
できなかった。
机の引き出しを。
開ける。
奥へ。
封筒を入れる。
引き出しを。
閉じる。
「……」
その時。
「澪ー」
「……っ」
優真の声。
「はい」
「風呂空いたよ」
「分かりました」
「あと、明日の朝なんだけどさ」
「はい」
「この前のパン屋、別のやつも買ってみない?」
「……」
明日。
また。
一緒に。
「……はい」
「じゃあ少し早く出よう」
「はい」
返事をしてしまう。
嬉しいと。
思ってしまう。
「……」
澪は。
閉じた引き出しに。
そっと。
手を置いた。
その中には。
離婚届。
そして。
扉の向こうには。
明日の約束をする。
優真がいる。
「……」
終わらせなければ。
そう。
決めたはずなのに。
今日も。
書けなかった。




