第22話 いつも通り
翌朝。
「おはよう、澪」
「……おはようございます」
キッチンへ入ると。
優真がいた。
「コーヒー淹れようと思ってたんだけど、澪も飲む?」
「はい。お願いします」
「了解」
いつも通り。
優真が。
二人分のコーヒーを淹れる。
自分のカップ。
澪のカップ。
迷うことなく。
二つ。
「はい」
「ありがとうございます」
「熱いから気をつけてね」
「はい」
受け取る。
「……」
温かい。
いつもと。
同じ。
昨日の夜。
決めた。
終わらせなければ。
自分で決めた契約なのだから。
自分から。
終わらせなければならない。
そう。
決めたはずなのに。
「今日、少し早く出る?」
「……なぜでしょうか」
「昨日、由奈が駅前のパン屋の新作がどうとか言ってたから」
「……」
「あれ?」
「はい」
「興味なかった?」
「いえ」
「じゃあ寄ってみる?」
「……はい」
答えてから。
気づく。
また。
一つ。
増えた。
優真と。
一緒にしたいこと。
「澪?」
「何でしょうか」
「やっぱり嫌だった?」
「いいえ」
「ならいいけど」
優真が笑う。
「じゃあ、ちょっと早めに出よう」
「……はい」
澪は。
カップを握った。
終わらせると。
決めた。
なのに。
今日も。
いつも通り。
始まってしまった。
◇
「これか」
駅前。
由奈が話していたパン屋。
店頭には。
期間限定。
という文字が出ている。
「結構並んでるね」
「七人です」
「数えたの?」
「はい」
「何分くらいかかるかな」
澪は。
列を見る。
一組あたり。
およそ一分から二分。
なら。
「十分程度だと思います」
「じゃあ並ぶ?」
「……」
以前なら。
出勤前。
十分。
必要のない待ち時間。
会社へ行けば。
その分。
仕事ができる。
でも。
「並びます」
「お」
「何でしょうか」
「いや」
優真が笑う。
「澪なら、出勤前に並ぶのは非効率です、とか言うかと思った」
「……」
少し前なら。
言っていたかもしれない。
「非効率ではあります」
「やっぱり」
「ですが」
澪は。
列の最後尾に並ぶ。
「食べてみたいので」
「そっか」
優真も。
隣に並ぶ。
「じゃあ待とう」
「はい」
十分。
何もしない。
ただ。
優真と。
並んで待つ。
「……」
前の客が。
一組進む。
優真が。
店頭の写真を見る。
「澪、どれにする?」
「まだ決めていません」
「俺これ」
「クリームパンですか」
「うん」
「優真さん、甘いもの好きですね」
「澪も最近食べるじゃん」
「以前よりは」
「じゃあ半分ずつにする?」
「……」
「二種類買って」
「半分ずつ」
「うん」
「……そうですね」
「決まり」
また。
一つ。
増える。
一緒に。
食べたいもの。
「……」
どうして。
今になって。
こんなことばかり。
気づくのだろう。
◇
「おはようございまーす!」
会社へ入ると。
由奈の声が飛んできた。
「おはようございます」
「おはよう」
「あっ!」
由奈が。
優真の持っている袋を見る。
「行ったんですか!?」
「行ったよ」
「いいなー!」
「佐倉さん」
「はい?」
「教えていただき、ありがとうございました」
「……」
「何でしょうか」
「いや」
由奈が。
澪と。
優真を見る。
「朝から二人でパン屋さん……」
「はい」
「出勤前に……」
「はい」
「……デートじゃないですか」
「違います」
即答。
したあと。
「……」
澪は。
止まる。
違う。
のだろうか。
「澪?」
「……何でもありません」
由奈の目が。
輝き始める。
「今、一瞬考えましたよね?」
「考えていません」
「考えました!」
「佐倉さん」
「はい」
「仕事をしてください」
「はーい」
由奈が笑いながら。
自分の席へ戻っていく。
「……」
優真が。
袋を持ち上げる。
「これ、昼に食べようね」
「はい」
「半分ずつ」
「……はい」
澪は。
自分の席へ向かった。
◇
仕事が。
始まる。
昨日までと。
何も変わらない。
「澪、この契約書見てもらっていい?」
「はい」
「ここなんだけど」
「確認します」
「ありがとう」
仕事をする。
優真から。
頼まれる。
必要とされる。
「……」
でも。
もう。
昨日までのようには。
安心できなかった。
契約書を確認できるから。
妻でいるわけではない。
仕事で。
必要とされることと。
夫婦でいることは。
違う。
「問題ありません」
「本当?」
「はい。ただし、こちらの表現は変更した方がよいと思います」
「ああ、なるほど」
「修正案を送ります」
「助かる」
「はい」
助かる。
嬉しい。
それでも。
違う。
「……」
自分は。
何を。
求めているのだろう。
必要だと。
言ってほしかった。
それだけで。
安心できた。
なのに。
今は。
それでは。
足りない。
◇
「澪」
「はい」
「パン食べよう」
昼休み。
優真が。
朝買った袋を持ってくる。
「はい」
「これが俺のクリームパンで」
「こちらが、私が選んだものですね」
「じゃあ半分にしよう」
優真が。
二つのパンを切る。
「はい」
「澪の方、こっち大きくない?」
「同じ程度です」
「いや、絶対こっち大きいって」
「誤差です」
「じゃあ澪が大きい方」
「なぜですか」
「食べたかったんでしょ?」
「優真さんも食べるのでは?」
「俺は半分食べられればいいから」
「……」
優真が。
大きい方を。
澪の皿に置く。
「どうぞ」
「……ありがとうございます」
一口。
食べる。
「どう?」
「美味しいです」
「よかった」
「優真さんも」
「うん」
優真も。
食べる。
「これうまいね」
「はい」
「また買おうか」
「……」
また。
「澪?」
「……はい」
「今度は違うのも食べよう」
「はい」
今度。
また。
次。
これから。
優真は。
何も知らないから。
普通に。
未来の話をする。
「……」
胸が。
痛い。
自分が。
その未来を。
終わらせようとしているのに。
◇
帰り道。
「今日どうする?」
「何がでしょうか」
「晩ご飯」
「ああ」
「冷蔵庫、何かあったっけ」
「鶏肉があります」
「じゃあ家で食べる?」
「はい」
「何作る?」
「そうですね」
二人で。
歩く。
いつもの道。
いつもの会話。
夕食を。
相談する。
「親子丼とか?」
「できます」
「じゃあそれがいい」
「分かりました」
「あ、俺も手伝う」
「では、玉ねぎをお願いします」
「了解」
「……」
明日も。
こうして。
歩くのだろうか。
明後日も。
その次も。
何も言わなければ。
ずっと。
「……」
それは。
できない。
自分で。
決めた。
終わらせると。
なのに。
まだ。
何もしていない。
「……」
澪は。
隣を見る。
優真がいる。
少し前を歩いて。
信号を見る。
「澪」
「はい」
「青になったよ」
「はい」
「行こう」
「……はい」
横断歩道を。
二人で渡る。
離れたくない。
また。
思った。
昨日より。
はっきりと。
終わらせたくない。
それでも。
終わらせなければ。
その二つが。
同時に。
胸の中にある。
◇
夜。
優真が。
風呂へ入っている間。
澪は。
一人。
リビングにいた。
「……」
テーブルの上。
昨日のノート。
開く。
『一緒にいたい』
自分で書いた文字。
「……」
指で。
なぞる。
消していない。
消せなかった。
今日。
一日。
優真といた。
朝。
コーヒーを飲んだ。
パン屋へ寄った。
一緒に並んだ。
半分ずつ。
パンを食べた。
仕事をした。
一緒に帰った。
夕食を作った。
全部。
特別なことではない。
なのに。
全部。
なくしたくない。
「……」
澪は。
ノートの下へ。
新しく書く。
『終わらせたくない』
「……」
書けた。
昨日なら。
認めることすら。
難しかったかもしれない。
でも。
今は。
分かる。
自分は。
この結婚を。
終わらせたくない。
優真と。
離れたくない。
「……」
それでも。
もう一行。
書く。
『契約条件』
必要がなくなれば。
解消する。
「……」
自分が。
決めた。
優真に。
提示した。
その条件。
そして。
今。
その必要性を。
自分自身が。
説明できなくなっている。
「……」
澪は。
ペンを握る。
終わらせると。
決めた。
なら。
いつまでも。
何もしないわけにはいかない。
優真が。
何も知らないまま。
明日も。
明後日も。
未来の話をする。
それを。
聞き続けていたら。
きっと。
自分は。
もっと。
終わらせられなくなる。
「……」
澪は。
スマートフォンを手に取った。
検索画面を。
開く。
指が。
止まる。
「……」
それでも。
ゆっくり。
文字を入力した。
『離婚届』
「……」
検索。
押せない。
画面を。
見つめる。
『一緒にいたい』
『終わらせたくない』
ノートには。
自分の本心が。
書かれている。
その横で。
スマートフォンには。
『離婚届』
正反対の言葉。
「……」
浴室から。
水の音がする。
優真が。
いる。
いつもの家に。
いつものように。
「……」
澪は。
目を閉じた。
そして。
検索を押した。




