第21話 自分で決めたこと
「ただいま」
「おかえりなさい」
その日の夜。
優真がリビングへ入ってくる。
「ごめん、遅くなった」
「問題ありません」
「もうご飯食べた?」
「いえ」
「待ってたの?」
「……はい」
「そっか」
優真が少し笑う。
「ありがとう」
「温めますね」
「俺もやるよ」
「では、お皿をお願いします」
「了解」
いつもの夜だった。
澪が料理を温める。
優真が食器を並べる。
「これでいい?」
「はい」
「あ、お茶も出す?」
「お願いします」
「分かった」
何も。
変わっていない。
二人で。
食卓につく。
「いただきます」
「いただきます」
優真が一口食べる。
「おいしい」
「ありがとうございます」
「これ、前にも作ってくれたよね?」
「はい」
「やっぱり好きだな」
「では、また作ります」
「うん」
「……」
また。
その言葉が。
胸に残った。
また。
次も。
これからも。
「澪?」
「はい」
「食べないの?」
「食べています」
「止まってたけど」
「少し考え事をしていました」
「仕事?」
「……」
一瞬。
答えに詰まる。
「そのようなものです」
「最近多いね」
「そうでしょうか」
「うん」
優真が箸を置く。
「何かあるなら言ってね」
「……はい」
「一人で考えすぎないでよ」
「分かっています」
「ならいいけど」
優真は。
それ以上。
聞かなかった。
「……」
澪は。
また食事を始める。
優真は。
何も知らない。
自分が。
契約の終了について。
考えていることを。
知らない。
「……」
言えば。
いい。
簡単なこと。
契約なのだから。
確認すればいい。
『現在も、この契約は必要でしょうか』
そう。
聞けばいい。
必要だと言われれば。
続ける。
必要ないと言われれば。
終わらせる。
ただ。
それだけ。
合理的な。
確認。
「……」
なのに。
できない。
『もう必要ない』
もし。
そう言われたら。
「……」
怖い。
その答えが。
怖い。
◇
食事を終える。
「俺、洗うよ」
「ですが」
「澪が作ったんだから、俺が洗う」
「……では、お願いします」
「任せて」
優真が食器を持っていく。
澪は。
ダイニングの椅子に座ったまま。
その背中を見る。
水の音。
食器の音。
優真の鼻歌。
「……」
こんな時間が。
好きになった。
以前なら。
食後。
すぐに片づける。
翌日の予定を確認する。
必要な仕事を終える。
それが。
一番効率的だった。
今は。
優真が食器を洗っているのを。
ただ。
眺めている。
何の生産性もない。
何も。
進まない。
それでも。
この時間が。
好きだった。
「……」
終わらせたくない。
その言葉が。
自然に浮かんだ。
「……っ」
澪は。
目を伏せる。
終わらせたくない。
契約を。
ではない。
この生活を。
優真と。
一緒にいることを。
終わらせたくない。
「終わった」
「……」
「澪?」
「はい」
「どうしたの?」
「何でもありません」
「本当?」
「はい」
優真が。
向かいの椅子へ座る。
「じゃあ、ちょっと休憩しよう」
「はい」
「コーヒー飲む?」
「お願いします」
「了解」
優真が。
また立ち上がる。
「……」
終わらせたくない。
それなのに。
自分が決めた条件は。
違う。
続けたいか。
ではない。
楽しいか。
でもない。
好きか。
でもない。
必要か。
それだけ。
◇
その夜。
優真が眠ったあと。
澪は。
一人。
リビングにいた。
「……」
時計を見る。
午後十一時四十分。
明日も。
仕事がある。
寝るべき時間。
分かっている。
それでも。
眠れなかった。
澪は。
テーブルに置いたノートを見る。
何も。
書かれていない。
「……」
ペンを持つ。
考えるだけでは。
まとまらない。
なら。
整理する。
昔から。
そうしてきた。
澪は。
ノートに書く。
『契約を継続する必要性』
「……」
書いた瞬間。
胸が。
少し痛んだ。
それでも。
続ける。
『会社』
その下に。
書いていく。
『経理』
『契約管理』
『社内管理』
『進行管理』
すべて。
必要。
自分が。
現在担当している。
けれど。
「……」
その横に。
一つずつ。
書く。
『妻である必要なし』
『妻である必要なし』
『妻である必要なし』
『妻である必要なし』
「……」
ペンが。
止まる。
会社に。
自分の仕事はある。
でも。
そのために。
優真の妻である必要はない。
社員として。
できる。
次。
『生活』
家事。
食事。
掃除。
洗濯。
「……」
優真は。
一人暮らしができない人ではない。
自分がいなければ。
生活できないわけではない。
それに。
家事をするために。
結婚したわけでもない。
「……」
線を引く。
次。
『対外的信用』
結婚した当初。
夫婦で会社を立ち上げることには。
意味があった。
互いを支える関係。
生活基盤。
信用。
合理的だった。
でも。
今は。
会社に。
実績がある。
取引先がある。
継続案件がある。
社員がいる。
優真自身も。
社長として。
信用を得ている。
「……」
今。
結婚していることが。
会社の成立条件ではない。
澪は。
その項目にも。
線を引いた。
「……」
何も。
残らない。
仕事。
生活。
会社。
どこにも。
自分たちが。
夫婦でなければならない理由が。
見つからない。
「……」
違う。
ある。
澪は。
思う。
一緒にいたい。
優真と。
一緒にいたい。
それだけは。
はっきりしている。
もっと。
一緒に食事をしたい。
一緒に出かけたい。
一緒に帰りたい。
くだらない話も。
したい。
知らない話があるなら。
教えてほしい。
柚月と二人でいると。
ヤキモチを感じる。
優真に。
誘われると。
嬉しい。
『俺も、澪が来てくれる方が嬉しい』
「……」
嬉しかった。
あの言葉も。
今でも。
覚えている。
なら。
書けばいい。
『一緒にいたい』
「……」
澪は。
書いた。
初めて。
合理性とは。
何の関係もない理由を。
「……」
見つめる。
一緒にいたい。
だから。
契約を続けたい。
「……」
でも。
それは。
契約を始めた時に。
決めた条件ではない。
自分たちの契約は。
互いに必要だから。
始めた。
必要でなくなれば。
解消する。
自分が。
そう決めた。
「……」
なら。
自分が。
一緒にいたいから。
その条件を。
無視していいのだろうか。
「……」
澪は。
答えを。
知っていた。
契約とは。
そういうものではない。
自分にとって。
都合が悪くなったから。
決めた条件を。
なかったことにはできない。
まして。
その条件を。
決めたのは。
自分。
「……」
優真は。
契約を終わらせようとは。
言っていない。
自分が必要ないとも。
言っていない。
むしろ。
必要だと。
何度も言ってくれた。
だから。
聞けばいい。
本当は。
確認すればいい。
でも。
聞けない。
答えが。
怖いから。
「……」
澪は。
ノートを見る。
『一緒にいたい』
その一行だけが。
他とは違って見えた。
「……私は」
声が。
震える。
「ずるいですね」
必要だから。
始めた。
必要がなくなれば。
終わらせる。
そう言ったのは。
自分なのに。
今になって。
終わらせたくないと。
思っている。
理由は。
ただ。
一緒にいたいから。
「……」
昔の自分なら。
迷わなかった。
条件を満たさなくなった。
なら。
契約終了。
それだけ。
なのに。
今は。
胸が。
苦しい。
「……」
それでも。
自分で決めたこと。
なら。
自分が。
守らなければならない。
優真に。
言わせるのではなく。
自分から。
「……」
澪は。
ゆっくり。
ペンを置いた。
『一緒にいたい』
最後に。
その文字を見る。
本当は。
消したくなかった。
この生活を。
失いたくなかった。
優真の隣から。
離れたくなかった。
それでも。
「……終わらせなければ」
誰にも聞こえない声で。
澪は。
そう呟いた。




