第20話 重なった資料
翌朝。
澪はいつもより早く会社へ来ていた。
「……」
パソコンを開く。
昨日の打ち合わせ。
十五分で終わった話し合い。
自分は。
何もできなかった。
『本当は、もう必要ないのでしょうか』
昨日。
頭に浮かんだ言葉が。
まだ残っている。
「……一度だけです」
小さく呟く。
一度の打ち合わせで。
すべてを判断するべきではない。
昨日は。
たまたま柚月の準備が完璧だった。
たまたま自分が確認する必要のある問題が出なかった。
それだけ。
自分には。
自分の仕事がある。
澪は画面を見る。
次回。
先方と確認する内容。
昨日決定した追加要望を反映した上で。
次の段階へ進むための資料を。
今日中にまとめる予定だった。
契約範囲。
追加費用。
今後の進行。
確認事項。
運用開始までの日程。
自分の得意分野。
何度も。
やってきた仕事。
「……」
澪の指が。
キーボードの上を動き始める。
◇
「おはよう」
「おはようございます」
少しして。
優真が会社へ来た。
「あれ、早いね」
「はい」
「何してるの?」
「次回の打ち合わせ資料です」
「ああ」
優真が澪のパソコンを見る。
「もう作ってるんだ」
「昨日の決定事項がありますので、早めに整理しておいた方がよいでしょう」
「ありがとう。助かる」
「……」
助かる。
その言葉に。
昨日までなら。
安心していた。
「澪?」
「はい」
「どうしたの?」
「何でもありません」
「そう?」
「はい」
「無理しないでね」
「問題ありません」
優真が自分の席へ向かう。
「……」
澪は。
もう一度。
資料へ視線を戻した。
大丈夫。
仕事は。
ある。
自分がするべきことは。
ちゃんと。
ある。
◇
午前十時。
「ここは……」
澪は資料を見直す。
現在。
八割ほど。
完成している。
契約範囲。
問題なし。
追加費用。
一部のみ発生。
進行予定。
現在の予定から。
三営業日前倒しが可能。
先方への確認事項。
二点。
一つ。
運用開始後の問い合わせ窓口。
もう一つ。
データ移行後の旧データ保存期間。
「……」
保存期間は。
一年。
いや。
先方の過去資料を見る限り。
三年は必要かもしれない。
確認事項へ。
追加しておく。
澪が入力する。
あと。
少し。
「澪さん、おはようございまーす」
「おはようございます」
由奈が出社してくる。
「あれ? もう仕事してたんですか?」
「はい」
「早いですね」
「通常の業務です」
「通常の業務を私が来る前からやってるのが早いんですよ」
「佐倉さん」
「はい」
「出勤したのであれば、まずパソコンを起動してください」
「はーい」
由奈が席へ向かう。
澪は。
再び資料へ戻る。
その時。
ピコン。
「……」
メール。
差出人。
一条柚月。
「一条さんから?」
優真が気づく。
「はい」
件名。
『次回打ち合わせ資料について』
澪は。
メールを開いた。
『昨日の決定事項を反映し、次回確認用の資料を作成しました。ご確認ください。』
「……」
添付ファイル。
澪は。
開く。
「……」
一ページ目。
昨日の決定事項。
二ページ目。
契約範囲。
三ページ目。
追加費用。
四ページ目。
今後の進行予定。
五ページ目。
先方への確認事項。
「……」
同じ。
自分が。
今。
作っている資料と。
ほとんど。
同じだった。
「早いなあ」
優真が自分のパソコンでメールを開く。
「昨日の今日でもう作ったんだ」
「……そうですね」
澪は。
自分の資料と。
柚月の資料を。
並べる。
契約範囲。
同じ。
追加費用。
同じ。
進行予定。
三営業日前倒し。
同じ。
確認事項。
問い合わせ窓口。
同じ。
旧データ保存期間。
「……」
そこも。
同じ。
柚月の資料には。
すでに。
『過去の運用状況を踏まえ、三年間の保存を推奨。先方確認要』
と書かれている。
澪が。
数分前。
考えたこと。
それも。
すでに。
入っている。
「……」
違いを。
探す。
一つ。
あった。
柚月の資料には。
もう一つ。
確認事項がある。
『運用開始後一か月間の問い合わせ件数を集計し、次回改善時の判断材料とするか』
「……」
自分には。
なかった。
澪は。
その項目を見る。
必要。
いや。
あった方がいい。
運用開始直後の問い合わせ内容を残しておけば。
次の改善点を。
判断しやすくなる。
正しい。
「澪」
「はい」
「どう?」
「……問題ありません」
「やっぱり?」
「はい」
「さすが柚月さんだね」
「そうですね」
「澪が作ってる資料と合わせたら――」
優真が。
澪の画面を見る。
「……あれ?」
「はい」
「ほとんど同じ?」
「……はい」
優真が。
二つの資料を見比べる。
「本当だ」
「内容は、ほぼ重複しています」
「ここも同じだね」
「はい」
「日程も」
「同じです」
「確認事項も……」
優真が止まる。
「あ、柚月さんの方が一個多い」
「はい」
「問い合わせ件数の集計か」
「必要な確認だと思います」
「じゃあ、こっちも澪の資料に入れる?」
「……」
澪は。
自分の資料を見る。
まだ。
完成していない。
八割。
一方。
柚月の資料は。
完成している。
内容も。
不足していない。
むしろ。
自分が見落としていた確認事項まで。
入っている。
二つの資料を。
作る必要は。
ない。
「いえ」
「え?」
「必要ありません」
「でも」
「一条さんの資料を使用してください」
「澪のは?」
「不要です」
「……」
優真が。
少しだけ黙る。
「せっかくここまで作ったのに?」
「内容が重複しています」
「そうだけど」
「同じ目的の資料を二つ用意する必要はありません」
「……」
「一条さんの資料は、すでに完成しています」
「うん」
「内容にも問題ありません」
「うん」
「私の資料にはない確認事項も含まれています」
「……そうだね」
「でしたら」
澪は。
自分の資料を見る。
「こちらを完成させる意味はありません」
「……」
優真は。
何か言おうとして。
止まった。
「分かった」
「はい」
「でも、ありがとう」
「……」
「作ってくれてたことは嬉しいから」
「はい」
澪は。
小さく頷いた。
「ありがとうございます」
そして。
自分の資料を。
閉じた。
保存しますか?
画面に表示される。
「……」
澪は。
少しだけ。
指を止めた。
保存する必要は。
ない。
同じ資料が。
すでにある。
しかも。
完成している。
澪は。
『保存しない』
を選んだ。
画面から。
資料が消えた。
◇
昼休み。
「澪さん、ご飯行きません?」
「すみません。先に行ってください」
「え?」
「確認したい仕事があります」
「珍しいですね」
「何がでしょうか」
「最近の澪さん、仕事より一緒にご飯行く方を選ぶこと増えてたから」
「……」
澪の手が。
止まる。
「今日は、仕事を優先します」
「分かりました」
由奈が少し心配そうに見る。
「何かあったら言ってくださいね?」
「何もありません」
「ならいいですけど」
由奈が。
直人と陸を追いかける。
優真は。
電話中。
澪は。
一人。
自分のパソコンを見る。
「……」
確認したい仕事。
そう言った。
けれど。
本当は。
特にない。
ただ。
考えたかった。
昨日。
打ち合わせへ行った。
何もできなかった。
今日。
資料を作った。
完成する前に。
同じ資料が届いた。
自分より。
完成した状態で。
「……」
一度なら。
偶然。
二度なら。
どうなのだろう。
「……」
違う。
回数の問題ではない。
澪は。
自分の仕事を考える。
経理。
必要。
契約管理。
必要。
社内管理。
必要。
進行管理。
必要。
自分には。
まだ。
仕事がある。
「……」
だから。
必要。
そう考えようとした。
けれど。
そこで。
止まった。
経理は。
会社に必要。
契約管理も。
会社に必要。
社内管理も。
進行管理も。
会社に必要。
「……」
では。
それは。
自分でなければ。
できないのだろうか。
以前なら。
そうだった。
会社を作ったばかりの頃。
人はいなかった。
優真と。
自分。
二人。
優真が営業する。
自分が。
それ以外を支える。
二人でなければ。
会社は。
成立しなかった。
だから。
結婚した。
会社を作るため。
互いにとって。
必要だったから。
「……」
でも。
今は。
違う。
直人がいる。
陸がいる。
由奈がいる。
みんな。
できることが増えた。
仕事を。
任せられるようになった。
優真も。
社長として。
以前より。
ずっと。
一人で判断できる。
そして。
社外の仕事では。
柚月が。
自分と同じように。
いや。
今日に限れば。
自分より早く。
必要なものを。
用意した。
「……」
会社は。
成長した。
自分が望んだ形に。
近づいている。
一人がいなくなっただけで。
何もできなくなる会社ではない。
それは。
正しい。
喜ぶべきこと。
なのに。
「……」
澪は。
胸元を押さえた。
苦しい。
会社に。
仕事はある。
自分が担当する仕事も。
まだある。
でも。
それは。
自分が。
優真の妻でなければ。
できない仕事なのだろうか。
「……」
違う。
経理は。
社員でもできる。
契約管理も。
社員としてできる。
進行管理も。
妻である必要はない。
自分が。
優真と結婚していなければ。
できない仕事では。
何一つ。
ない。
「……」
澪は。
ゆっくり。
目を閉じた。
必要だから。
結婚した。
必要だから。
契約した。
そして。
決めた。
この関係が。
互いにとって。
必要でなくなった時。
契約を。
解消する。
「……」
その時は。
何も。
迷わなかった。
当然だと思っていた。
必要がない契約を。
続ける理由など。
ない。
だから。
そう決めた。
「……」
でも。
今は。
優真と。
一緒にいたい。
仕事に必要だからではない。
一緒に。
ご飯を食べたい。
一緒に。
帰りたい。
くだらない話も。
聞きたい。
自分の知らない話があれば。
知りたい。
仕事に必要がなくても。
誘ってほしい。
柚月と二人でいると。
少し。
嫌だと思う。
ヤキモチまで。
感じる。
「……」
全部。
契約を始めた時には。
なかったもの。
なのに。
契約の条件だけは。
あの時のまま。
必要がなくなれば。
終了。
「……」
澪は。
目を開ける。
パソコンの画面。
柚月から届いた。
完成した資料。
自分が。
作る必要のなかった資料。
昨日は。
打ち合わせで。
何もできなかった。
今日は。
自分の仕事だと思っていたものまで。
必要なかった。
「……」
自分は。
会社には。
まだ必要なのかもしれない。
でも。
それだけで。
契約を。
続けていいのだろうか。
会社員として。
必要とされることと。
優真の妻として。
必要とされることは。
同じなのだろうか。
「……」
分からない。
優真は。
何も言っていない。
契約を終わらせたいとも。
自分が必要ないとも。
一度も。
言っていない。
むしろ。
何度も。
必要だと。
言ってくれた。
それなのに。
澪には。
もう。
以前と同じ意味では。
受け取れなかった。
「……」
必要がなくなれば。
契約は終了する。
自分で決めた。
その条件が。
今。
初めて。
怖かった。
「……私たちの契約は」
声が。
震えた。
「もう、終わりなのでしょうか」




