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第16話 今度は行きます

 翌日。


 金曜日。


 午前十時過ぎ。


「澪さん」


「はい」


「昨日のことなんですけど」


「……」


 澪の手が止まった。


 向かいの席から、由奈がこちらを見ている。


「何でしょうか」


「ヤキ――」


「佐倉さん」


「はい」


「勤務中です」


「まだ最後まで言ってません」


「言おうとしていました」


「……はい」


「仕事をしてください」


「はい」


 由奈がパソコンへ視線を戻す。


「……」


 澪も仕事へ戻る。


 昨日。


 優真に言った。


 柚月と二人で行動することが、少し気になる。


 そして。


 それは。


 ヤキモチである可能性が高い。


「……」


 思い出した。


 顔が熱くなる。


「澪さん」


「何でしょうか」


「また赤くなってます」


「仕事をしてください」


「はい」


 由奈は楽しそうだった。


 ◇


 昼前。


 新しいメールが届いた。


「ん?」


 優真が声を上げる。


「どうされましたか?」


「この前の先方から」


「何かありましたか?」


「いや、仕事じゃなくて」


「?」


 優真がメールを読む。


「第二段階の仕様も固まったし、第一段階も順調だから、一度食事でもどうですかって」


「食事ですか?」


「うん」


 澪の指が止まる。


 以前。


 同じようなことがあった。


 先方との食事。


 優真。


 柚月。


 そして、自分。


 自分も誘われていた。


 けれど。


 柚月が参加すると知って、行かなかった。


 その結果。


 一人で家に帰り。


 何度も時計を見た。


「柚月さんにも声かけてるみたい」


「……そうですか」


「来週の水曜だって」


「水曜日」


 澪は予定を確認する。


 空いている。


「どうする?」


 優真が聞く。


「俺は行こうと思ってるけど。澪も来る?」


「行きます」


 即答した。


「……」


 優真が瞬きをする。


「行く?」


「はい」


「柚月さんも来るよ?」


「承知しています」


「そっか」


「はい」


「……」


「何でしょうか」


「いや。今回は早いなって」


「……」


「前は柚月さんが来るって分かって、やめたでしょ?」


「覚えていたのですか」


「そりゃ覚えてるよ」


「……そうですか」


「今回はいいの?」


「はい」


「なんで?」


「……」


 澪は少し考える。


 以前なら。


 理由を探した。


 先方との関係維持。


 今後の業務。


 第二段階の確認。


 自分が参加することで得られる情報。


 けれど。


 今回は。


 探す必要がなかった。


「私も一緒にいたいからです」


「……」


 優真が固まった。


「……」


 澪も固まった。


 言った。


 昨日。


 水森には言った。


 けれど。


 優真本人には、言っていなかった。


「……」


「……」


 由奈のキーボードの音が止まった。


 直人のキーボードも。


 止まった。


 陸まで、こちらを見ている。


「……澪」


「はい」


「今の」


「忘れてください」


「無理じゃない?」


「忘れてください」


「いや」


「お願いします」


「……」


 優真の顔が、少しずつ緩んでいく。


「嬉しい」


「……」


「行こう」


「……はい」


「一緒に」


「分かりましたから」


 澪はパソコンへ視線を戻した。


 耳が熱い。


 顔も、おそらく赤い。


「……」


 由奈を見る。


「……」


 両手で口を押さえている。


「佐倉さん」


「何も言ってません」


「まだ何も聞いていません」


「先に答えました」


「……」


「大丈夫です」


「何がでしょうか」


「我慢します」


「してください」


「はい」


 ぷるぷる。


 震えていた。


 ◇


 水曜日。


 午後六時半。


 先方が予約してくれた店へ入る。


「こんばんは」


 すでに柚月が来ていた。


「こんばんは」


「お疲れさまです」


 優真と澪が挨拶する。


「今日は澪さんも参加されるんですね」


「はい」


「……」


 柚月が少し考える。


「参加したかったから?」


「……」


 澪が止まる。


「一条さん」


「はい」


「覚えていたのですか」


「もちろんです」


「そうですか」


「違いましたか?」


「……いいえ」


 澪は椅子を引く。


「参加したかったからです」


「なるほど」


 柚月が頷く。


「理解できます」


「……本当に変わりましたね」


「私がですか?」


「はい」


「以前なら、必要性を確認していたと思います」


「そうですね」


「ですが」


 柚月は澪を見る。


「今日は、必要性を聞く必要がないと思いました」


「……」


 少し不思議だった。


 以前は、自分とよく似ていると思った人。


 必要か。


 不要か。


 合理的か。


 非合理的か。


 それを基準に判断する人。


 その柚月が。


 少しずつ変わっている。


「澪」


「はい」


「座らない?」


「……はい」


 優真に言われて。


 澪も席についた。


 ◇


 食事は。


 前回とは違った。


 もちろん、仕事の話もする。


「第二段階は、来週から着手できそうです」


 優真が説明する。


「予定より二日早いですね」


 柚月が言う。


「直人たちが前倒ししてくれたから」


「でしたら、こちらの確認日も早めます」


「助かります」


 相変わらず。


 早い。


 優真が話す。


 柚月が整理する。


 その場で次の予定まで決まっていく。


「……」


 仕事上の相性は、やはり良い。


 けれど。


 今日は、それを見ていても以前ほど落ち着かなくならなかった。


 なぜなら。


 自分も、ここにいるから。


「神谷さん」


 先方の担当者が優真を見る。


「そういえば、前回の食事の時に話していた件なんですが」


「ああ、あれですか」


「覚えてます?」


「覚えてますよ」


 二人が笑う。


「?」


 澪には分からない。


 前回の食事。


 自分が参加しなかった時の話だ。


「……」


 少し気になる。


 やはり。


 気になる。


「何の話でしょうか」


 澪は聞いた。


「あ」


 優真がこちらを見る。


「前に、この人が――」


 優真が説明する。


 ほんの。


 どうでもいい話だった。


 先方の担当者が辛い料理が得意だと言ったのに、実際には少し辛いだけで汗だくになった。


 それだけ。


「そんな話でしたか」


「うん」


「……」


「澪?」


「はい」


「何?」


「いえ」


「気になった?」


「はい」


 答えた。


「少し」


「……そっか」


 優真が笑う。


「何でしょうか」


「いや。聞いてくれてよかった」


「なぜですか?」


「澪も知ってる話になったから」


「……」


 澪は少しだけ言葉に詰まった。


「そうですね」


「うん」


「では」


「?」


「今後も、私が知らない話があれば教えてください」


「全部?」


「可能な範囲で」


「仕事の話?」


「それ以外もです」


「……」


「何でしょうか」


「いや」


 また。


 優真が笑う。


「分かった」


「お願いします」


「うん」


 向かい側で。


 柚月が二人を見ていた。


「……」


「一条さん?」


「はい」


「どうされましたか?」


「少し、興味深いと思いまして」


「何がでしょうか」


「澪さんです」


「私?」


「はい」


 柚月が言う。


「以前の澪さんなら、今の話を聞く必要はないと判断したのではないでしょうか」


「……」


 確かに。


 仕事に関係がない。


 聞かなくても、何も困らない。


「そうかもしれません」


「ですが、今は知りたい」


「はい」


「理由は?」


「……」


 澪は優真を見る。


 優真も、こちらを見ている。


「……知りたいからです」


「それだけ?」


「はい」


「なるほど」


 柚月が小さく頷く。


「やはり、その程度の理由で十分なのですね」


「……」


 以前。


 自分が言った言葉だった。


『その程度の理由です』


「そうですね」


 澪も頷く。


「十分だと思います」


 ◇


 午後九時過ぎ。


 食事が終わった。


「では、私はこれで」


 駅前で柚月が足を止める。


「今日はありがとうございました」


「こちらこそ」


「お疲れさまでした」


 柚月が一度、澪を見る。


「澪さん」


「はい」


「今日は参加してよかったですか?」


「はい」


 今度は迷わなかった。


「よかったです」


「そうですか」


「はい」


「では」


「お疲れさまでした」


 柚月と別れる。


 優真と澪は二人で歩き出した。


「澪」


「はい」


「今日、楽しかった?」


「はい」


「そっか」


「優真さんは?」


「楽しかったよ」


「そうですか」


「うん」


「……」


 歩く。


 少しして。


 優真が言った。


「前は」


「はい」


「澪、来なかったじゃん」


「……はい」


「今日は来てくれて、よかった」


「そうですか」


「うん」


「……」


 澪は少しだけ歩く速度を落とした。


 優真も自然に同じ速度になる。


「優真さん」


「何?」


「次も、誘ってください」


「……」


「仕事上、私が必要でなくても」


「うん」


「一応、聞いてください」


「分かった」


「参加するかどうかは、その時に決めます」


「うん」


「ですが」


「?」


「誘われないよりは、誘われる方が嬉しいです」


「……」


「……」


「澪」


「はい」


「俺も」


「?」


「澪が来てくれる方が嬉しい」


「……」


 澪の足が、ほんの少し止まりかける。


「そうですか」


「うん」


「……ありがとうございます」


 また歩き出す。


 ヤキモチだから。


 一緒にいたいから。


 知らない話があれば、知りたいから。


 どれも。


 仕事には必要のない理由だった。


 けれど。


 今日は来てよかった。


 それだけは。


 理由を考えるまでもなく分かっていた。


 ◇


 翌日。


 昼休み。


「それで!?」


 由奈が身を乗り出していた。


「もう一回お願いします!」


「なぜですか」


「社長がなんて言ったんですか?」


「先ほど説明しました」


「もう一回聞きたいんです!」


「意味が分かりません」


「いいじゃないですか!」


「よくありません」


 澪は昼食を食べながら、小さく息を吐く。


 昨夜の食事会。


 そして。


 帰り道での会話。


 それを。


 なぜか由奈に話すことになってしまった。


「澪さんが」


 由奈が指を一本立てる。


「次も誘ってくださいって言った」


「はい」


「仕事上必要じゃなくても誘ってほしいって言った」


「……はい」


「誘われる方が嬉しいって言った!」


「佐倉さん」


「はい!」


「声が大きいです」


「すみません!」


 由奈が声を落とす。


「それで社長が」


「……」


「澪が来てくれる方が嬉しいって!」


「……はい」


「きゃーーーーーっ!!」


「佐倉さん!」


「だって!」


 由奈が両手で口元を押さえる。


「なんなんですか、この二人!」


「何がでしょうか」


「結婚してるんですよね!?」


「しています」


「新婚ですよね!?」


「そうですね」


「なのに!」


 由奈が机を軽く叩く。


「なんでこんな、結婚前の好きになったばっかりみたいな空気出せるんですか!」


「……」


「普通、結婚してるのにこんな空気出せませんよー!」


 由奈は。


 いつものように。


 楽しそうに笑っている。


「毎日ちょっとずつ距離縮まってるじゃないですか!」


「そうでしょうか」


「そうですよ!」


「……」


「見てるこっちが恥ずかしくなります!」


「佐倉さんが勝手に見ているだけでは?」


「同じ会社なんだから見えます!」


「仕事をしてください」


「今、昼休みです!」


「……そうでした」


「もう、本当に」


 由奈が嬉しそうに笑う。


「結婚してから恋愛始めてるみたいですよね」


「……」


 澪の手が止まった。


「澪さん?」


「……いえ」


 結婚してから。


 恋愛が。


 始まっている。


 なぜ。


 そうなったのだろう。


 普通なら。


 結婚する前に。


 相手を好きになって。


 一緒にいたいと思って。


 その先に。


 結婚がある。


 けれど。


 自分たちは。


 違う。


「……」


『結婚は契約です』


 あの日。


 自分から。


 そう言った。


 会社を作るため。


 生活を整えるため。


 互いにとって合理的だったから。


 結婚した。


「澪さん?」


「はい」


「どうしました?」


「……何でもありません」


「ほんとですか?」


「はい」


 そうだ。


 自分たちは。


 契約結婚だった。


 最近。


 あまりにも毎日が自然だったから。


 忘れかけていた。


 優真と一緒に帰ること。


 一緒に食事をすること。


 同じ家で暮らすこと。


 優真と柚月が一緒にいると気になること。


 優真から誘われると嬉しいこと。


 自分から、一緒にいたいと思うこと。


 全部。


 いつの間にか。


 当たり前になっていた。


 でも。


 始まりは。


 普通の結婚ではない。


 契約だった。


「……」


「でもほんと、いいですよねー」


 由奈がまだ楽しそうに話している。


「何がでしょうか」


「結婚してから好きになっていくのも」


「……」


 好きに。


 なっていく。


「……そうですね」


 澪は答えた。


 それ自体は。


 否定したくなかった。


 今の毎日を嫌だと思ったことはない。


 むしろ。


 以前より。


 ずっと楽しい。


 だからこそ。


 由奈の何気ない一言が。


 なぜか頭から離れなかった。


『結婚してから恋愛始めてるみたいですよね』


 そう。


 自分たちは。


 普通とは順番が違う。


 好きになって。


 結婚したわけではない。


 必要だったから。


 契約を結んで。


 夫婦になった。


 そして。


 そのあとで。


 少しずつ。


 優真と一緒にいることが楽しくなった。


 もっと一緒にいたいと思うようになった。


 柚月と二人でいることが気になるようになった。


 誘ってもらえることが。


 嬉しくなった。


「……」


 澪の指が止まる。


 自分たちは。


 契約結婚。


 だったら。


 じゃあ。


 契約が終わったら?……

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