02 胃薬不足
まずいことになった。
「試験、試験、試験……実技試験……うぅ、胃が」
成績に関わる重大な試験が三週間後にある。
まだ編入し、学園生活に慣れて数週間経ったばかりだ。一応担任に話をつけたが、編入生だからと言って免除はしないと言われてしまい「天才のシリルさんにはとても期待しています」なんて言われてしまった。僕ができるのはあくまでペーパー試験だけ。その他はからっきしダメだ。
こんなことならジゼルに年間予定を聞いておけばよかった。彼女はこの年に四回ある試験を乗り越え、学年で好成績をキープしているのだ。成績は座学と実技の合計の点数で出るため、文武両道でなければたとえどちらかが秀でていてもトップは狙えない。改めてジゼルのすごさを思い知った。
先に教室に行ってしまった殿下にもこの話をしたのだが、彼はいつも通りやっていれば問題ないと取り合ってくれなかったし、やはり拗ねているようだった。いつもより彼の周りを覆う冷気が低かった気がする。
彼に胃薬を捨てられたことにより、手元に薬がない。昼休みの間に一度寮に戻り調達してこなければ。
タイミングよく午前の授業の終わりを告げるチャイムが鳴る。僕は一目散に荷物を片づけ教室を飛び出した。
廊下に出ると、ほとんどの人が食堂に向かって歩いているようでその流れに逆らって歩く。
「わっ……」
曲がり角を曲がったタイミングで誰かとぶつかってしまった。ただ、小走りしていた僕のほうが弾かれ、その場で尻もちをつく。
じぃんとした痛みが腰に走る中、ぶつかった誰かが見下ろす気配を感じた。
「誰かと思ったら、噂の編入生か」
鼓膜がぞわぞわするような甘い低音ボイスが響く。だが、どこか威圧的で見下しているような冷たさも感じる声だ。
顔をあげると真っ先に黄金を散らしたような髪が目に入った。その次に、ターコイズブルーの瞳が映る。整った顔立ちに、スッと長い脚、同じ制服を着ているのに気品を感じるのはなぜだろうか。
「あわ……えっと」
「リュシアンさまにぶつかっておいて謝罪もないとは! この無礼者!!」
キャンキャン子犬が鳴くような声が聴こえてきたので視線を移すと、彼の後ろに隠れるようにアプリコット色の髪をした小さな少年が僕を睨んでいた。ネクタイの色から察するに、一つ下の学年であることが伺える。プリムヴェール学園はネクタイとリボンの色で学年が分けられている。僕たち二年生は青色だ。
金髪の青年は、後ろで騒いでいた少年を宥めつつ、僕のほうに視線を向ける。その目はディオン殿下とはまた違う、品定めをするような冷たい瞳だ。
「落ち着け、ティボー。それと、お前が噛みついていい相手じゃない。彼はかの有名なアルヴェス公爵家の次男、魔法の天才シリル・アルヴェスだ」
「こ、このちんちくりんが!?」
「ち、ちんちくりんって……」
あっているかな? と言うように彼は僕のほうを見る。
この人に見られると、背筋がぞわぞわとする。殿下と似た雰囲気があるが、全く異なる魅力を持った人だ。
ティボーと呼ばれた彼は、僕を三、四度見すると信じられない、と眉をひそめていた。だが、目の前のこの人だけはやたらと堂々としている。
ああ、思い出した。この人は確か――
「――リュシアン。シリルになんの用だ」
ふとそんな声が降ってきたかと思えば、グイッと後ろに腕を引かれる。
ふわりと香ったシトラスの匂いは間違いなくディオン殿下のものだ。
「でん、か?」
「そちらの彼がぶつかってきたんだ。なに、別に謝罪を強要しているわけじゃない。俺は心が広いからな。でも運がいい。ずっと見たかったんだ。編入してきた天才くんをね」
「シリルは見世物じゃない」
「そう睨むな。ディオン。お前のそういうところは変わらないな。だから周りに人がいないんだ。じゃあ、これで俺は失礼するよ。昼食を食べ損ねてしまう」
彼はそう言うと、僕と殿下の隣を通り抜けていく。去り際ティボーがケッとこちらを睨んだ気がしたが、殿下が見なくていいと目を塞いでくれたため、実際に目が合うことはなかった。
「ディオン殿下、どうしてここに」
「俺を置いて出ていくな。それと食堂とはその方角は食堂と反対だぞ」
「えーっと……まず、助けてくれてありがとうございます。置いて出ていったというよりは、胃薬を」
なんでまた、とディオン殿下は僕を見る。
それは貴方の機嫌が悪いのと、試験があるからですよ――とはいえず、あはは、と笑って誤魔化す。
それにしても、とんでもない人に出会ってしまった。
先ほどの彼は、アルヴェス公爵家と並ぶ三大公爵家の一つルメルシエ公爵家の嫡男リュシアン・ルメルシエその人だった。その後ろについて回っていたのは、多分ビュット伯爵家の次男ティボー・ビュットだろう。
社交界に出ていなくとも、噂話は公爵家に入り込んでくる。ビュット伯爵家に関しては最近造船業に力を入れており、ルメルシエ公爵家から投資してもらっているという。業績は悪くないが、魔法石を用いた船舶運航事業が立ちががればすぐに傾くような危うさもある。実際、魔法石を用いた船の開発は僕……いやアルヴェス公爵家名義の企業が開発中だ。
問題はビュット伯爵家ではなく、ルメルシエ公爵家だ。
彼の家は現国王陛下の弟、つまり王弟を当主とした非常に力を持った家門。リュシアンはディオン殿下の従兄ということになる。先ほどの感じから察するに、どちらも互いにあまりいい感情を抱いていないようだ。
「リュシアンに絡まれていたが、大丈夫か?」
「え? ああ、はい。大丈夫ですよ。というか、僕がぶつかって……殿下?」
殿下は僕を抱きしめると、彼らが歩いて行った方向に顔を向ける。細められたロイヤルブルーの瞳には影が差し、抱きしめる手に力が込められたような気がした。




