七話「変化」
キラキラと輝く深い紫を見つめながら、それを掌でコロコロと弄ぶ。解いたリボンはジョージのタイと一緒に机に無造作に置かれ、それを視界の端に捕らえながら考える。
おかしい。
本来、ゲームシナリオ中でアイラは誰とも色を合わせない。それどころか、普段の制服姿のまま収穫祭に参加する。婚約者たちが色合わせをしている姿を見て、「いつか私も……」と憧れを抱くシーンの筈。
何故、ルイスと色合わせをされている?
何故、白地に金の刺繍をしたリボンを身に着けた?
何故、キャリーはそんなリボンを勧めた?
ゲームのシナリオから外れるような出来事が起きていた。そんな事が有り得るのだろうか。
「いやでも、私もジョージと色合わせしちゃったしなあ……」
自室の机に突っ伏し、うんうん唸りながら考えているのだが、何度考えてもアイラが何故あのリボンを身に着けていたのか全く分からない。
ルイスが白地に金刺繍のタイを身に着ける話は知っていた。友人たちと話していれば、誰がどんな物を身に着けてくるのかは何となく耳に入る。だからエリザもジョージも白は避けた。あの場にいた誰もが、白の小物は避けていた筈。
アイラはともかくとして、伯爵令嬢であるキャリーがその話を知らないとは思えなかった。
「わざと……かなあ。でもわざわざそんな事する意味が分からない。陰湿な嫌がらせ?でも仲良くしているのに嫌がらせをして何がしたいの?」
ブツブツと呟きながら考え続けても、やはり何も分からなかった。
がしがしと頭を掻き回し、明日からどうしたものかと悩んでいると、ふいに部屋の扉をノックする音が聞こえた。
「はい」
「私だ」
扉の向こうから聞こえたのは、父の声だった。胸の奥に広がる嫌な感覚を必死に飲み込み、どうぞと返事をすると、扉を開いた父は酷く怒っているように見えた。
「話は聞いた。公衆の面前で男爵令嬢を貶めたと」
「収穫祭でのお話でしたら誤解ですわ。むしろ私は……」
「黙れ!よくも家名に傷を付けてくれたな、この役立たず!」
顔を真っ赤にして喚く父は、娘の言葉を聞くつもりは一切無いらしい。満足するまで聞いてやるのが一番早くこの地獄を終わらせることの出来る方法なのだが、耐えているうちにどんどんと鼻の奥がツンと痛くなる。
泣いてなんかやらない。
どうせ役立たずだもの。
満足するまで怒鳴ったら良いわ。
頭の中に響くエリザの声は、何かを諦めたように静かだった。
「聞いているのか!」
「はい、勿論」
「何がしたいのだお前は!王太子妃にもなり損ね、クレムセンの倅の前でも大人しく貞淑な女になりきれないとは!」
「お言葉ですが!」
堪えることが出来ない。
頭の中に流れ込む、両親に罵倒される記憶。胸に溜まる絶望感。爪が皮膚に食い込む程拳を強く握りしめ、エリザは声を張り上げる。
「王太子妃になれると勝手に期待していたのはお父様とお母様でしょう。それを決めるのは私では無く王家の方々です。そんな事も分からず、私を責め立てて何が楽しいのです?」
「貴様……」
「ジョージとの婚約が不服なのでしたら、破棄させたら宜しいのです。娘に相応しいのは、イシャム公爵夫人の座ではなく、王妃の椅子であると」
パン、と渇いた音が響く。目の前に星が飛んだ。何が起きたか理解する前に、耳にキンと甲高い音が響いた。
「良いか、出来損ないは出来損ないらしく大人しくしておけ。これ以上、私に恥をかかせるな」
奥歯を噛みしめながらそう言うと、父はバンと大きな音を立てながら扉を閉め、ドスドスと足音を響かせながら去って行く。
ああ、殴られたのか。
そう理解しながら、エリザは痛む頬を抑えて自嘲気味に笑った。
何故、お父様に逆らうの。
頭の中に声が響く。
「ムカついたから」
その言葉に、頭の中は何も響かない。耳鳴りだけが、頭の中で響いていた。
◆◆◆
腫れあがった顔で学校に行くというのは、どうにも気まずい。友人たちから大騒ぎをされ、気まずくなって初めて授業をサボった。ちょっと医務室へと言い残し、来るんじゃなかったと後悔しながら、学園の裏庭に逃げ込んで三時間程。
早く今日の授業が終わらないだろうか。そろそろ屋内に入りたいが、サボっているところを先生に見つかれば、余計に面倒な事になる。
「顔が腫れる程殴るかね、普通。あいてて」
じんじんと痛む頬を摩りながら、エリザは持ってきていた本の続きを読もうと視線を落とす。なるべく顔を隠そうと、今日は髪を降ろしたまま来たのだが、風が吹く度に煽られて苛々した。
「成績上位なら、サボっても許されると思うなよ」
頭上から降ってきた声に、パッと顔を上げた。
少し息の上がったジョージが、いつも通り眉間に皺を寄せてエリザを見下ろしている。
「……貴方もサボってるわ」
「俺は良いんだ」
「理不尽という言葉を、辞書で引いてみる事をお勧めするわ」
裏庭なら誰も来ないと思っていた。一人で時間を潰し、迎えの馬車が来るまでやり過ごそうと思っていたのに、まさかこの男に見つかるなんて。
しかも、今日は頬が腫れている。
パッと顔を伏せ、風で乱れた髪を直しながら頬を隠した。だが、その場にしゃがんだジョージは、そっとその髪を指先で退ける。
「腫れている」
「……何でも無いわ」
「何があった?」
「何も無いったら」
「……そうか」
見られた事が恥ずかしい。
それと同時に、頭の中では「憐れみのつもり?」と声がする。本当に、人の頭の中で勝手に話し始めないでほしいものだ。
「友人たちが心配していたぞ」
「そう。明日謝っておくわ」
「体調が悪くて帰った事にすると良い」
「ええ、そうするわね」
ペラペラと本のページを意味もなく捲っているうちに、ジョージは当たり前のようにエリザの隣に座る。今は一人にしてほしいのに、ジョージにその気は無いようで、退屈そうに欠伸をしながら遠くの木を眺めている。
「戻りなさいよ。もう探し人は見つかったのだから」
「授業の途中で戻ったら目立つだろう」
「抜け出すのが悪いのよ」
「……今日は気分じゃないんだ」
何かと理由を作って居座るつもりのようだが、何とも居心地が悪い。
散々ルイスを追いかけ回し、嫌な思いをさせ続けた相手と色合わせをしようなどと突然言い出した上、リボンもピンも用意させてしまった。
その上、会場で騒ぎを起こし、父に叱られて顔を腫らし、居心地の悪さから逃げ出したせいで探させてしまった。
申し訳ないと謝った方が良いのだろうか。
いや、探してくれと頼んだ覚えはない。謝る理由が無いように思えて、ただ無言の時間だけが過ぎていく。
「お前に紫が似合うとは知らなかった」
「え?」
「いつも赤いと思っていたからな。新たな知見を得た気分だ」
「……赤いのは髪だけよ」
「ああ。どこにいてもすぐ見つかる」
便利だと笑ったジョージの横顔は、いつもよりも穏やかだ。
「派手なだけよ。もっと落ち着いた色なら良かったのに」
「何色なら良いんだ?」
「……金とか、黒……とか?」
「……お前には似合わんだろう」
「分からないじゃない。髪を好きな色に染められたら良いのに」
小さく笑ったエリザは、頬を動かしたせいで痛みを主張する顔をそっと撫でる。冬が近づいてきた気温のせいか、冷えた指先が気持ち良い。
「……もし、次があったらすぐ冷やすと良い。少しはマシになるだろう」
次、という言葉から察するに、エリザの頬が腫れている理由は何となく察しているのだろう。誰に何をされたのか口にする事はなくとも、エリザの父がどういう人間なのかは恐らくジョージも知っている。
「……失敗したから、仕方ないのよ」
次はもっと上手くやらなくちゃ。そう続けたかったのに、言葉が上手く出て来ない。鼻の奥がツンと痛む。喉が引き攣って声が出ない。ぎゅっと目を閉じ、細く長く息を吐いた。
悔しい。何も悪い事なんてしていないのに。
あれは助け舟を出そうとしただけ。理由も何も聞かず、怒鳴られて叩かれた事が、今になってとても悲しく、悔しくなった。
気にしないようにしようと、昨日は思えていた。
頭の中のエリザも、あれから何も言わなかった。それなのに、どうして今になってこんな気持ちになるのだろう。
「……騒ぎになってしまった事は、褒められた事ではない。だが、お前は悪意を持って行動したわけではない。あの女子生徒を助けようとしただけだ」
「……ええ」
「分かっている」
「……ええ」
今日はジョージが酷く優しい。いつもなら、エリザを探しに来る事も無いし、たまたま見つけたとしてもこうして隣にいる事も無い。慰めるように、優しく話す事も無い。
頭の中にぽつぽつと浮かぶジョージの顔は、いつだって不機嫌そうにしているか、怒っているかのどちらかだった。
「嫌っている婚約者相手に、随分優しいのね」
ぽつりと出てしまった言葉は、考えて出た言葉ではなかった。自分でもよく分からないが、きっと本当のエリザから出た言葉なのかもしれない。
「確かにお前の事は嫌いだが、最近のお前はそこまで嫌いではない」
嫌いとはっきり言われた事に少しだけ胸が苦しくなったが、エリザだってジョージの事は好いていない。それは頭に浮かぶ記憶からはっきりしていた。
「少なくとも、今のお前なら夫婦として生活出来なくはない」
「前の私は無理と言いたいの?」
「誰が好き好んで他の男を追いかけ回す女と仲睦まじく結婚生活を送りたいと思うんだ」
「……それもそうね」
「何故、殿下を追いかけ回す事をやめたんだ」
ジョージの疑問に、すぐに答える事が出来ない。アイラとくっつけたいからですとは言えないし、かといってルイスに恋心があったわけでもない。
膝を抱えて困り果てていても、ジョージはまっすぐ前を向いたまま、エリザの返事を待っていた。
「……怒らないで聞いてくれるのなら」
「今更怒らん」
目を閉じ、背中を壁に預けたジョージは、早く話せとばかりに腕を組む。言い訳をして逃げたいが、何故だか今のエリザは、誰かと話をしていたい気分だった。
「そう、望まれていたからよ。期待に応えなければと、必死だったの」
ぽつぽつと、言葉を零した。
頭の中に浮かんだ言葉を、そっくりそのまま口から吐き出す。きっとこれは、エリザ本人の、心からの言葉だ。
「望まれた通りにならなかったから、少しでも期待に応えなければと思っていたの。そうする事で、貴方がどう思うかなんて欠片も考えずに」
ジョージは何も答えない。
ただ黙って、目を閉じたまま聞いているだけだ。
「今更遅いことも分かってるわ。分かっているけれど、私はもうどうしたら良いのか分からない。貴方が嫌なのなら、婚約破棄でも何でもしてちょうだい」
ぽたぽたと目から雫が零れ落ちる。喉がひくついて、上手く言葉が続けられない。抱えた膝に突っ伏して、くぐもった声でたった一言を続ける事しか出来なかった。
「ごめんなさい」
サラサラと風に揺られる木の葉の音だけが響く。唇を噛みしめ、腕をぎゅっと握りしめ、声を堪える事だけに集中した。
「……意味は分からんが、謝罪は受け取ろう。それに、婚約を継続するも破棄するも、決めるのは俺じゃない」
「……うん」
「今度は目が腫れる。冷やせる物なんて持っていないからな」
「……ハンカチくらいは差し出しなさいよ」
グズグズと涙声のまま、可愛げのない事を言ってしまうのもまた、本当のエリザの言葉だったのかもしれない。




