第18話 『港まつり。帰り道』
帰り道。
さっきまであれほど世界を埋めていた祭りの気配が、もう遠い。
屋台の灯りは背中のほうへ退いて、赤も金も、いまは夜の奥でまだ夢の続きをしているみたいにかすんでいる。花火の音は、もうどこにもない。あんなに空を揺らしていたはずなのに、終わってしまえば夜は最初から何もなかったみたいな顔で広がっている。聞こえるのは、浴衣の裾がこすれるやわらかな音と、二人分の足音だけだった。石畳を踏むたび、小さな乾いた音が夜へ落ちる。その音が、どうしてかやけに遠くまで響いていく。祭りのあとというだけで、道は少し広すぎた。さっきまで人の波で押し合っていたはずの帰り道が、いまはもう、二人のあいだにある沈黙までそのまま受け入れてしまうくらい静かで、残酷だった。
風が吹く。海のほうから来たのか、花火のあとの冷たさをそのまま運んできたみたいな風だった。
ひよりの浴衣の袖が、わずかに揺れる。髪が少し動く。
今の空はただの夜だ。街灯は白く、塀は暗く、家々の窓はどれも閉じている。祭りの夜から一歩外へ出ると、世界はこんなにも早く、こんなにも平然と、いつもの顔へ戻ってしまう。楽しかった時間は、終わるまではあんなに鮮やかなのに、終わった瞬間から急に遠ざかる。ついさっきまで手の届くところにあったはずのものが、もう少し先の夜の中へ吸い込まれていく。屋台の匂いも、河原の歓声も、空を裂いた光も、ぜんぶ振り返ればまだありそうなのに、歩くたびに少しずつ背中のほうへ退いていく。祭りの帰り道というのは、たぶん、世界から色が抜けていく時間だ。
私たちは何も話さなかった。話せなかった、のほうが近いかもしれない。楽しかったとか、きれいだったとか、そんな言葉ならいくらでもあるはずなのに、どれも今ここでは軽すぎて、口にした途端、それが全部「終わり」の合図になってしまいそうだった。花火の残り火みたいな余韻も、つないだ手の冷たさも、さっきまでの非日常そのものも、そこで全部「終わったもの」に変わってしまう。だから黙って歩く。沈黙を守ることが、そのまま今夜を少しでも長く引き止めることみたいに思えた。
わたしたちは、まだ手をつないでいた。祭りの人混みではぐれないため、という理由は、もうとっくに役目を終えている。だから、本当ならもう離していてもよかった。それなのに、どちらからも言い出さなかった。離す理由も、続ける理由も、うまく言葉にならないまま、ただそのままでいた。
ひよりの手は、まだ少し冷たかった。花火を見ていたときと同じはずなのに、今はその冷たさが前よりずっとはっきりしている。指と指のあいだにある細い骨の感じ。袖の下に続いている静かな体温。さっきまで空に咲いていた光よりも、いまはこの手のほうがずっと鮮やかだった。
もうすぐ、分かれ道だった。そこを曲がれば、ひよりはあっちで、わたしはこっち。いつもの帰り道に戻る。街灯の位置も、見慣れた塀も、自販機の白い光も、急にいつもの顔をして立っている。花火の夜の後では、そういう当たり前のものたちが妙に静かで、妙に遠慮がなくて、恨めしい。金魚すくいの水も、りんご飴の赤も、空いっぱいの花火も、わたしたちの手の中のぬくもりも、ぜんぶ今夜だけの顔をしていた。その今夜が、いま、分かれ道の手前で、少しずつほどけていく。
ひよりの手が、そこで少しだけ強くなった。ぎゅ、と、たしかめるみたいに、引き止めるみたいに、わたしの手のひらに、ひよりの気持ちだけがそのまま触れてきたみたいだった。
声にならなかった。ひよりは何も言わない。でも、その手だけが、言葉より先に何かを伝えようとしている。わたしも何か言わなければいけない気がした。今しかない。ここで何も言わなかったら、たぶんあとで後悔する。帰って、浴衣を脱いで、髪飾りを外して、布団の中で今日を思い返したとき、どうしてあのとき何も言えなかったのだろうと、胸の奥が少しだけ痛くなる気がした。でも、何かを話した瞬間、全部が壊れてしまいそうな気がする。
言葉はすべてを鮮明にする。触れないまま形にしたくなくて置いておきたいものにまで、輪郭をつけて、名前をつけて、終わらせてしまう。好きとか、さびしいとか、帰りたくないとか、そういう言葉をひとつでも置いたら、その瞬間に今夜は今夜でなくなってしまう気がした。
分かれ道の手前で足が止まる。ひよりも止まった。祭りの名残みたいなざわめきが、遠くのほうで小さく鳴っている。たぶん、まだ向こうでは屋台の片づけが始まっていて、遅れて帰る人の笑い声もあるのだろう。
「……リン」
呼ばれて、顔を上げる。街灯の薄い明かりが、ひよりの頬に落ちる。きれいで、少し困っていて、たぶんわたしと同じくらい、どうしていいかわからなくなっている顔だった。
「なに」
ひよりは、すぐには答えなかった。その代わり、つないでいた手をもう一度だけ強く握った。さっきより、もっとはっきりと。それから、ほんの少しだけ、わたしのほうへ近づいた。肩が触れる。浴衣の袖が重なる。その近さに、呼吸が浅くなる。花火を見ていたときより近い。ひよりの髪は夜気を含んで、かすかに揺れる。そのわずかな揺れまで、見てしまう。それくらい、いまの時間は薄くて、壊れやすくて、ひどく大事だった。
その距離で、ひよりは小さく言った。
「……おやすみなさい」
今ここで言うには少しだけ早い言葉だった。まだ帰り道の途中で、夜も終わっていなくて、手もつないだままなのに。でも、たぶん、それしか言えなかったのだと思う。おやすみ、という言葉の中に、今夜を壊さずにしまうためのやさしさが、ぜんぶ入っていた。好きも、帰りたくないも、離したくないも、ぜんぶ飲みこんで、それでも最後に残ったのが、おやすみ、だった。その控えめさが、ひよりらしくて、余計に胸に来た。
わたしも、少しだけ息を飲んでから答えた。
「……おやすみ」
声にした瞬間、胸の奥で何かが静かに沈んだ。これで、本当に帰るのだとわかってしまった。今夜はここで閉じられるのだと、はっきりしてしまった。
そして、どちらからともなく、つないでいた手を離した。
ひよりは、離れる直前、指先だけをわたしの手のひらに少しだけ残した。引っかくみたいに、名残を置いていくみたいに、ほんのわずかな接触だった。それだけのことなのに、胸が苦しくなった。
ひよりは一歩下がって、少しだけ笑った。いつもの顔に戻りかけて、でもまだ戻りきっていない顔だった。祭りの終わりと、日常のはじまりのあいだで立ち止まっている顔。それを見て、ああ、わたしもきっと同じ顔をしているのだろうと思った。
「では、また」
「うん。また」
ひよりは小さくうなずいて、自分の帰る道のほうへ歩き出した。
わたしも少し遅れて、反対側へ向かう。
わたしは振り返らなかった。振り返ったら、たぶんまた戻ってしまいそうだったから。たった数歩なのに、その数歩が今夜をほんとうに終わらせていく。背中の向こうで、ひよりももうこっちを見ていない気がした。見ていたら困る。見ていなくても困る。そういう、どうしようもない帰り道だった。
もうひよりの手はない。さっきまで確かにそばにあったものが、音もなく遠ざかっていく。追いかけることもできないまま、ただ見送るしかない。歩きながら、わたしは何度も、もうないはずの冷たさを手のひらに探していた。探しても、もちろんない。
世界が少しずつ夜の闇へ沈んでいく。
見えない水に溶けていくみたいに、静かに、静かに薄くなっていく。
祭りの終わりは、夢から覚めるのに似ている。




