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【百合がだだ漏れの観測記録】クラスメイトがわたしのことを好き過ぎて大変なことになった。  作者: 丹波謙虎


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第19話 『一条アオイ』


 昼休みの終わりが近かった。

 夏の光は容赦なく白くて、校庭の端の木々まで、何もかもを照らしている。廊下にはまだ何人か残っていた。教室へ急ぐ足音。階段を駆け上がる上履きの音。笑いながら曲がり角を曲がっていく女子の声。どこかの教室から、机を引く鈍い音もする。

 綾月ひよりは、その廊下をひとりで歩いていた。ノートを胸の前に抱えて、長い黒髪を背中に落として、足音もほとんど立てずに進んでいく。教室へ戻る途中。ただ、それだけの時間だった。

 けれど、ひよりの頭の中には、まだ港まつりの夜が残っていた。花火の光。夜店の灯り。桃瀬りんの手の温度。帰り道の静けさ。分かれ道の手前で、指先がほどけていく感触。

 あの夜は、たぶん幸せだった。そう思うのは難しくなかった。楽しかったという言葉だけでは足りない。きれいだったという言葉でも少し違う。もっと胸の奥にしまっておきたい種類の時間だった。りんと並んで歩いた。手をつないだ。花火を見た。おやすみと言って、別れた。それだけだった。それだけなのに、あれから何かが変わってしまった気がする。

 この先は、あるのだろうか。ふと、そんなことを思った。手をつないだ先。おやすみの先。ただの友達ではないような時間の、その先。自分は、それを望んでいるのだろうか。もし望んでいるのだとして。りんも、同じものを望んでいるのだろうか。それとも、自分だけが勝手に、あの夜の続きを探しているのだろうか。

 望んでいる、と言ってしまえば、何かが形を持ってしまう。望んでいない、と言うには、港まつりの夜がまだ胸の中で鮮やかすぎる。では、これは何なのだろう。名前のないまま、手のひらに残り続けるもの。言葉にしないまま、毎日少しずつ重くなるもの。それは、何と呼べばいいのだろう。

 その時、ひよりの前に、影がひとつ落ちた。

 背の高い女生徒だった。まず、黒い髪が目に入った。まっすぐで、長くて、肩から胸のあたりを越えて、制服の上に静かに落ちている。光を受けても軽くならない黒だった。夏の廊下の白い明るさの中で、その髪だけが夜を細く切り取って持ってきたみたいに見えた。

 立ち姿がきれいだった。背筋が伸びていて、肩の線に無駄な力がない。ただそこに立っているだけなのに、廊下の流れがその人の前で一度止まったように感じる。可愛い、という言葉は違った。華やか、というのとも違う。目に入った瞬間、空気の輪郭が変わるような人だった。

 切れ長の目は涼しかった。けれど、冷たいだけではない。まっすぐこちらを見ていて、その視線には迷いがなかった。相手の反応をうかがうための目ではなく、もう自分の中で決めたことを、相手の前に置きに来た目だった。強く睨んでいるわけではないのに、簡単には逸らせない。

 口元は、ほとんど笑っていなかった。でも不機嫌そうでもない。薄く結ばれた唇には、余計な言葉を削ぎ落として、必要なことだけを言う人の硬さがあった。言うと決めたことは言う。そのあと、相手がどう受け取るかまで見届ける。そんな静かな強情さが、顔の下半分に残っていた。

 制服の着方も、きちんとしているのに、どこか近寄りがたかった。襟元、袖口、長い指。ひとつひとつが整っていて、その整い方がわずかに鋭い。夏の昼の明るさの中に立っているのに、その人のまわりだけ温度が下がったように見える。

 ひよりは、彼女のことをほとんど知らなかった。

 見たことはある。同じ学年なのだろう、という程度の見覚えはある。すれ違ったことも、もしかしたら何度かあるのかもしれない。でも、それだけだ。名前も、どのクラスなのかも、話したこともない。

 どうして自分の前で立ち止まったのだろう。彼女は、迷いなくひよりの前に立ったまま言った。

「綾月さんと桃瀬さんって、付き合ってるの?」

 ひよりは、一瞬、何を聞かれたのかわからなかった。

 廊下の向こうで、誰かが笑っている。階段のほうから上履きの音がして、また遠ざかる。どこかの教室で、友達を呼ぶ声が一度高く跳ねて、すぐに薄まる。

「……どうして」

 ひよりはそう返した。

「港まつりで見たから」

「……何をですか」

「手、つないでた」

 ひよりは黙った。

 そこまで、まっすぐ言うのだと思った。見たから。手をつないでいたから。だから付き合っているのかと聞く。あまりにも一直線で、言葉を濁す余地がない。

 違う、と言うことはできた。ただの友達です、と片づけることもできた。でも、本当にそうなのだろうか。あの夜の手を、ただの友達という言葉の中にしまっていいのだろうか。花火の下でつないでいた手も、帰り道で離せなかった手も、分かれ道でほどけた指先も、全部ただの友達で説明できるのだろうか。この先は、あるのだろうか。さっき自分で考えたばかりの問いが、今度は別の人の口から、違う形で突きつけられているようだった。

「じゃあ、まだなんだ」

 彼女は、少しも意地悪そうではなかった。むしろ、見えたことをそのまま受け取って、そのまま口にしているだけみたいだった。答えを急かすでもなく、責めるでもなく、ひよりが言わなかったことの意味まで読んでいる。この人は、何をどこまで見ているのだろう。手をつないでいたことだけか。それとも、その手を離せなかったことまで、見抜いているのだろうか。ひよりは、知らない人にここまで深く踏み込まれていることに、少し遅れて気づいた。

「一条アオイ」

 不意に、彼女が言った。

「……はい?」

「名前。まだ知らない顔してるから」

 言われてみれば、そんな名前を聞いたことがある気もした。

 一条アオイ。同じ学年で、別のクラス。

 たぶん、それくらいの情報ならどこかで耳にしている。

 けれど、ひよりの中ではまだ、名前と目の前の人が完全には結びつかなかった。

「なぜ、そんなことが聞きたいんですか」

 ひよりは、気づけばそう聞いていた。

「廊下で見たから」

「……いま、ここでですか」

「違う。前に」

 向こうの教室の扉が開いて、誰かが飛び出してくる。そのまま友達に何か言って、二人で笑いながら階段のほうへ走っていった。その笑い声が一瞬こちらにかかって、また遠ざかる。

 その途切れた静けさの中で、アオイは続けた。

「廊下で綾月さんの横顔を見た。すごく惹かれた。それで、もっとあなたのことを知りたいって思った」

 その言い方も、やはりまっすぐだった。見た。惹かれた。知りたくなった。その流れに、余計な装飾がない。だからこそ、逃げ道がない。

 廊下で見た横顔。それだけで、誰かの中にこんなふうに残ることがあるのだろうか。でも、目の前の人は、それをたぶん本当に信じて言っている。

「わたし、綾月さんのことが好き」

 その言葉は、さっきより自然に落ちた。理由を話したあとだからかもしれない。あるいは、最初からその言葉へ向かって歩いてきたからかもしれない。

 ひよりは、息を止めた。好き。こんなふうに、廊下の途中で差し出されるものなのだろうか。受け取る準備もないまま、いきなり手の中に置かれてしまうものなのだろうか。もっと重たいものではなかったのか。もっとたくさんの前置きや、ためらいや、沈黙のあとに来るものではなかったのか。

 冗談みたいに笑いもしない。照れもしない。探るような言い方でもない。ただ、目の前の事実を言うみたいに、まっすぐ置く。ひよりのまわりには、そういう人はいなかった。

 少なくとも、桃瀬りんはそうではない。

 りんは言わない。言わないまま隣にいる。言わないまま、手をつなぐ。言わないまま、離れたら困るとだけ言う。ひよりは、それが好きだった。

 でも、その「好き」は、アオイの言う「好き」と同じものなのだろうか。同じ言葉で呼んでいいのだろうか。りんの言わなさに救われていた気持ちと、アオイのまっすぐさに圧倒されている今の気持ちは、同じ場所に置けるのだろうか。わからないまま、目の前にいる一条アオイは、そのまわりを全部飛ばして、最初から答えのところへ立っている。

「……困ります」

 ひよりは、ようやくそう言った。

「そうだろうね」

「わたしは、一条さんのことをほとんど知りません」

「知ってもらえばいいから」

 返事が早い。

「そういう問題では」

「そういう問題だよ」

 アオイの目は涼しい。

 でも、その涼しさのまま引かない。

 押しつけがましいわけではないのに、引き下がる気もない。

「わたしね、昔、花風さんと付き合ってた」

「ありすと、ですか」

「知らなかった?」

「知りませんでした」

 ありすは何でも話すようでいて、話さないことはきれいに話さない。

 過去の恋人のことまで、ひよりが聞く機会はなかった。

「でも今は違う」

 アオイはそう言って、ひよりを見る。

「今は、綾月さんが好き」

 窓の外では、雲ひとつない昼だった。なのに、足元のほうだけ、冷えて見える。チャイムが鳴るまで、もうそんなに時間はない。先生が来たら、この会話はそこで終わる。でも、終わっても、なかったことにはならない。そういう言葉だった。

「返事は急がなくていいよ」

「……」

「ただ、知っておいてほしかったから」

 知っておいてほしい。好きだと。そう言われたことが、胸の中でまだ処理しきれない。

「桃瀬さんと付き合ってないなら、わたしにも可能性あるよね」

 その一言で、ひよりの心臓が速くなる。

 桃瀬りん、という名前が、こんなふうに他人の口から出るのが嫌だった。

 どうして嫌なのだろう。りんは、わたしのものではないのに。わたしは、りんと何かを約束したわけでもないのに。付き合っているわけでもない。好きだと言われたわけでもない。それなのに、どうして、他の人の言葉がりんに触れるだけで、こんなに落ち着かなくなるのだろう。

 そのとき、教室の後ろの扉が開いて、中からありすが顔を出した。

「ひより、もう先生来るって――」

 そこまで言って、ありすは止まった。

 視線が、ひよりからアオイへ移る。その瞬間、ありすの表情が硬くなる。嫌そうだった。はっきりと。でも、その嫌さは次の瞬間にはもう押し殺されていた。さっきアオイが言ったことを思い出す。昔、花風さんと付き合ってた。それなら、気まずいのかもしれない。嫌なのかもしれない。嫌だけど、今ここでそれを出すわけにはいかないのかもしれない。

「……アオイ」

 ありすの声は、平らにしようとしていて、でも乾いていた。アオイは、ありすを見た。その目には驚きも、気まずさも、隠す感じがない。ただ、ちゃんと見る。

「久しぶり」

「うん」

 ありすは、それ以上すぐには何も言わなかった。

 花風ありすは、もっと言葉が多い。軽口も、笑いも、すぐ出る。それなのに今は、押し殺している。ありすは、こんなふうに黙る人だっただろうか。この沈黙は、怒りなのだろうか。未練なのだろうか。それとも、ただ気まずさの形なのだろうか。はっきりとはわからない。ただ、いつものありすではないことだけはわかった。

「ひよりに、何か用?」

 できるだけ普通に聞こうとしているのがわかる声だった。でも、普通になりきれていない。薄いガラス一枚ぶんだけ、感情が声の下に残っている。

「うん。でも、もう終わった」

「そう」

 ありすは短く答える。昔付き合っていた人が、いま、自分の友達に会いに来ている。そのことを、何でもないことみたいに受け止めようとしている。

 チャイムが鳴った。校舎の中に、乾いた音がひろがる。昼休みが終わる。教室へ戻る時間だ。

 アオイは、ひよりから、今度はありすへ視線を移して、それからまたひよりを見た。

「じゃあ、また」

 それはさっきよりやわらかい声だった。また来る。また会う。また好きだと言える位置に、自分を置く。そういう響きが、その短い一言にはあった。アオイは、そこでようやく踵を返した。長い黒髪が背中で揺れる。背の高い姿が、廊下の向こうへ遠ざかっていく。その後ろ姿まで、迷いがなかった。

 ひよりはしばらく動けなかった。

「……ひより」

 ありすの声で、ようやく我に返る。

「教室、戻ろ」

 ありすは笑っていなかった。

「はい」

 ひよりがそう答えると、ありすは先に教室の中へ入っていった。背中はいつもどおり明るく見えるのに、歩く速度が少しだけ速かった。ひよりは、そのあとを追いながら思う。

 教室の扉の向こうには、いつもの席がある。

 いつもの昼の続きがある。

 桃瀬りんも、たぶんもう戻っている。

 けれど、そこに戻ったとしても、何もかもがさっきまでと同じではいられない気がした。


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