第16話 『港祭り。手を繋ぐ』
夜店の通りは、灯りでできた川みたいだった。
提灯の赤や金が途切れず続き、その下を人の波がゆっくり流れていく。
浴衣の袖が触れあい、下駄の音が重なり、笑い声や呼び込みの声が、湯気みたいにあちこちから立ちのぼる。
焼ける匂い、甘い匂い、水の匂いまで混ざって、夜はまだ浅いのに、通りだけが先に祭りの色へ沈んでいた。
屋台と屋台のあいだには、人の肩越しにのぞく光があって、その隙間に見える景色まできらきらしている。
金魚の赤、りんご飴の照り、ヨーヨーの丸い色、綿あめの白。
どれも、つかめそうなのに、つかんだ瞬間ほどけそうな顔をして並んでいる。
人は多い。
なのに息苦しさより、胸の奥が先にざわつく。
夜店の通りは、現実の上にもう一枚だけ重ねられた、にぎやかな幻みたいだった。
ひよりは、その中を静かに歩いていた。
白地に薄い青の模様の浴衣は、夜店の灯りを受けるたび、水面みたいに色を変える。
長い黒髪は背中に落ちて、風が通るたびゆるく揺れた。
通りはこんなににぎやかなのに、ひよりのまわりだけ、何かを見つめるための余白が残っている。
「すごいね」
わたしがそう言うと、ひよりは通りの先を見たまま、うなずいた。
「はい。ちゃんとにぎやかなのに、少し向こう側です」
「向こう側?」
「全部ここにあるのに、まだ触れてはいけない感じがします」
その言い方が、今夜にはよく似合った。
灯りも、人の声も、屋台の匂いも、たしかにここにある。
でも、どれも少し遠い。
手を伸ばせば届くのに、そのままだとほどけてしまいそうなものばかりだった。
金魚すくいの前で、ひよりが足を止めた。
水槽の中だけ、夜店の中でひとつ余分に夢を飼っているみたいだった。
提灯の赤が水にこぼれて、ゆらゆらほどけて、朱い金魚の背にひっかかる。
白い金魚は灯りのかけらみたいにひらめいて、黒い影は水の底をするりとすべる。
薄い紙のすくい網がそっと入るたび、水面が小さくへこんで、赤も白もいっせいに散った。
尾びれは薄い花びらみたいで、揺れるたびに色がこぼれる。
小さなガラスの箱の中だけ、祭りの灯りが生きものになって泳いでいた。
「蜃気楼みたいです」
ひよりは水槽を見たまま言う。
「見えているあいだだけ存在しているようです」
わたしは水槽を見た。
赤がほどけ、白がひるがえり、水の底で黒い影が流れていく。
「じゃあ、もう少し追いかけようか」
ひよりは、うれしそうにうなずいた。
たこ焼きの屋台の前で足が止まる。
ソースの匂いは、考える前にお腹を動かす。
鉄板の上でたこ焼きが転がされるたび、丸い焼き色が灯りを受けてつやつや光る。
紙の舟にのせられて、青のりと鰹節がかかり、湯気が上がる。
ひとつ持ち上げただけで、もうおいしそうだった。
たこ焼きは、いつも少しだけ人を油断させる。
丸くて、つやつやしていて、鰹節まで楽しそうに踊っているものだから、こちらもつい安心する。
表面はちゃんと焼けていて、箸でつまむと薄い皮がかりっと張っている。
だから、もう食べごろだなと思う。
そこが罠だ。
かじった瞬間、その内側から、とろとろに熱い生地がほとんど液体みたいにあふれてくる。
舌が驚く。
しまった、と思う。
でも、その熱さの奥にだしの味があって、ソースの甘さが追いかけてきて、最後にたこの歯ごたえが小さく返事をする。
祭りのたこ焼きは、口の中で起きる小さな事故まで含めて、おいしい。
「熱い」
「かなり熱いです」
「でも、これくらいが祭りっぽい」
次に足を止めたのは、りんご飴だった。
りんご飴は、夜店の灯りをそのまま丸く閉じ込めたみたいだった。
飴の膜は赤く、つやつやしていて、提灯の光を受けるたび表面に小さな火がともる。
人の流れも、笑い声も、その赤い丸い面に少しだけ歪んで映る。
夢みたいな顔をしているくせに、中にはちゃんと冷たいりんごが入っている。
「食べたい?」
「食べたいです」
ひよりが小さくひとくちかじる。
飴の赤い膜が割れて、その下の白い果肉がのぞいた。
「音がいいです。今夜は音にも色がついています」
お面屋の前では、自然に足がゆるんだ。
白狐、猫、般若、ひょっとこ、キャラクターものまで、いろんな顔が並んでいる。
灯りを受けたお面たちは、笑っているのか黙っているのか、少しわかりにくい。
薄い紙と塗りだけでできているのに、目の穴の黒さだけがやけに深かった。
「どれがいい?」
「今日は、見ているだけでいいです」
「そうなんだ」
「今夜は、すでに少し別の顔をしている気がするので」
その言葉に、わたしは思わず髪飾りに触れそうになった。
母から借りた小さなそれは、まだ耳の横で静かに揺れている。
また、人の流れに混ざる。
屋台通りは、最初よりさらに濃くなっていた。
灯りも、人の声も、匂いも、全部近い。
世界のほうが狭くなって、そのぶんだけ熱を持っている。
ひよりは相変わらず、目に入るものをひとつずつ受け取っていた。
綿あめの袋が揺れるのを見て、射的の景品の列を見て、風鈴の音に顔を上げる。
そのたびに、表情がほぐれる。
そのひとつひとつが、よく目に入る。
少し先で、人の流れが乱れた。
前のほうで家族連れが立ち止まり、そこへ横から人が入り込んで、通りの幅がいきなり細くなる。
提灯の下で浴衣の袖が重なり、下駄の音が近くで乾いて跳ねた。
祭りの人混みは、さっきまでただ浮ついていただけなのに、その瞬間だけ急に牙をむく。
人の波が、ひとりぶんの隙間を平気で飲み込もうとする。
そこへ、子どもが飛び出してきた。
小さな体が、大人たちのあいだを斜めに抜ける。
手に何かを握ったまま、前だけを見て走っている。
その肩が、ひよりの腕にぶつかった。
ひよりが、よろけた。
大きくではない。
ほんの一瞬、体の芯がずれるだけ。
でも、それが怖かった。
浴衣の裾は足を自由にしない。
下駄は踏ん張りに向いていない。
しかも周りには人がいる。
ひよりの肩がわずかに傾き、長い黒髪が遅れて揺れる。
片方の足がうまく地面をつかめず、白い袖口の下で手首がかすかに泳ぐ。
「危な」
気づいたときには、もう手が伸びていた。
ひよりの手首をつかむ。
薄い布の袖口の下、指に触れた骨は驚くほど細くて、その軽さに胸の奥がひとつ縮む。
呼び込みの声も、笑い声も、鉄板の音も、ちゃんとまわりにある。
けれど、そこだけ薄い膜で切り取られたみたいに、わたしたちのあいだだけ別の速さになる。
わたしの手だけが、ひよりの手首の細さを知っている。
ひよりのほうも、振りほどこうとはしない。
ただ、自分の手首に置かれたわたしの指を見て、それから、わたしの顔を見た。
その視線に、急に息が浅くなる。
反射だった。
本当に、それだけだった。
でも、反射で触れてしまったもののほうが、あとから言い訳がきかない。
「……ごめん」
こぼれた声は、自分で思ったより小さかった。
ひよりはすぐには答えなかった。
視線だけが静かに落ちて、わたしの指の置かれた場所を見ている。
「どうして謝るんですか」
喉のあたりで言葉が止まる。
人が多いから。
危なかったから。
はぐれたら困るから。
どれも本当だ。
でも、そのどれもが本当だけでは足りない。
ひよりの手首をつかんだまま、わたしはようやく言う。
「離れたら、困るから」
ひよりのまつげが、わずかに揺れた。
「はい」
それだけだった。
たったそれだけの返事なのに、ひよりはもう全部わかったみたいな顔をした。
軽くもなく、重くもなく、でも確かにそこへ置かれる「はい」。
その一音で、わたしの指先が急に自分のものじゃなくなる。
あの瞬間、ひよりはどっかに消えてしまいそうだった。
繋ぎ止めなければ、という気持ちが私の中ではじけた。
ひよりの手首はまだわたしの指の中にある。
袖の下の冷たさが、じわりと伝わる。
拒むための冷たさじゃない。
ただ静かで、透き通っていて、触れたところからこっちの熱を受け取っているみたいな冷たさだった。
わたしは息をひとつ飲んで、手首から、ほんの少しだけ手を下ろした。
手首から、手の甲へ。
そこまで来ると、もう戻れない気がした。
指先が、ひよりの指先に触れる。
ひよりは動かなかった。
逃げもしない。
呼吸だけが、そこでひとつ止まったみたいに静かになる。
触れた指先が、次の瞬間にはもう重なっている。
ひよりの手が、わたしの手の中へ静かにおさまる。
まるで最初からそこへ来る場所を知っていたみたいに、するりと。
あまりに自然で、だからこそ胸が詰まる。
手をつなぐ、なんて、もっと意識してするものだと思っていた。
こんなふうに、気づいたときにはもう形になってしまっているものだとは知らなかった。
ひよりの手は少し冷たかった。
でも、その冷たさは甘い。
夏祭りの熱に浮いた夜の中で、その冷たさだけが澄んでいる。
わたしの手のひらはたぶん少し汗ばんでいて、ひよりの指は細くて、爪の先がかすかに触れる。
その全部が生々しい。
生々しいのに、触れてはいけないものに触れているみたいに清い。
夜店の灯りも、人のざわめきも、遠くで鳴っているだけになる。
手の中にあるものだけが、急に世界の中心になる。
「リン」
名前を呼ばれる。
つないだ手のままで。
「なに」
「今の、かなりうれしかったです」
わたしは顔を上げられなかった。
その一言が、まっすぐすぎた。
言葉にしたら負けるみたいな気がした。
でも、黙っていても、もう十分すぎるほど伝わっていた。
「……うるさい」
やっと返せたのは、それだけだった。
ひよりの指が、ほんの少しだけわたしの指に沿う。
握り返す、と言い切るには控えめで、でも、そこにいるとわからせるには十分な動き。
それだけで心臓がひどい鳴り方をする。
手をつないでいるだけだ。
それだけのはずなのに、唇が触れるより先に、もっと深いところへ届いてしまうことがある。
今が、たぶんそれだった。
「離れません」
前を向いたまま、ひよりが言う。
「そう」
「約束します」
「大げさだな」
「大事なので」
その声は静かで、静かなまま甘かった。
こんなに人がいるのに、その一言だけは、わたしの耳のすぐ近くで落ちたみたいに聞こえる。
言い訳のために始まったはずの形が、もう言い訳を必要としなくなっていた。
はぐれないため。
人が多いから。
危なかったから。
そういうものは全部、最初のひと押しでしかなかった。
本当は、離したくなかった。
その本音が、指と指のあいだに、もうきれいに収まっている。
ひよりは前を向いたまま、もう一度言った。
「リンの手、思ったよりあたたかいです」
「それ、前にも言った」
「かもしれません」
そこで少し黙ってから、ひよりは続ける。
「でも、ちょうどいいです」
返事ができなかった。
ちょうどいい、なんて。
そんな言い方で、こんなふうに胸の奥を刺してくるのは、たぶんひよりだけだ。
そのとき、屋台通りの先で、空を見上げる人が増えはじめていた。
ざわめきの質が変わる。
食べるための歩き方から、待つための立ち方へ、人の流れが少しずつ移っていく。
夜そのものが、これから一度、大きく開くのを待っているみたいだった。
でも、わたしにとっては、その前にもう決定的なことが起きていた。
金魚すくいの水も、たこ焼きの熱さも、りんご飴の赤も、全部このための前置きだったみたいに思える。
今夜のまんなかは、たぶん空じゃない。
手のひらと手のひらのあいだにある。
「そろそろですね」
「うん」
「花火」
その一言で、夜の輪郭がまた変わる。
夜店の赤も金も、手の中の体温も、人混みのざわめきも、これから空に開くものへ向かって少しずつ息をひそめる。
「見える場所、行こっか」
「はい」
つないだ手は、そのままだった。
もう離す理由がなかった。
ここから先こそ、離したくなかった。
夜店の灯りは背中のほうへ流れていく。
前には、少しだけ開けた暗さがある。
空はすっかり夜になっていて、そこだけが大きく、何もないまま待っている。
その何もなさが、かえって胸を高く持ち上げた。
これからあそこに色が咲く。
音が落ちる。
光がほどける。
その最初のひとつを、今、手をつないだまま隣で見る。
遠くで、最初の打ち上げを知らせるような音がひとつ響く。
人のざわめきが、いっせいに上を向く。
花火が、始まる。




