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【百合がだだ漏れの観測記録】クラスメイトがわたしのことを好き過ぎて大変なことになった。  作者: 丹波謙虎


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第15話 『夏祭り。髪飾り』


祭りの夜は、異世界への入口に少し似ている。

いつもなら、ただの駅前だ。

人が通って、電車が着いて、コンビニの弱々しい光が白く地面を照らしているだけの場所だ。

けれど祭りの日だけは違う。

暗くなりかけた町のあちこちに、人の声が先に灯る。

浴衣の裾が揺れ、下駄の音が重なり、笑い声が行き交うたび、いつもの景色の上に別の夜が薄く重なっていく。

屋台の匂いはまだここまでは届いていない。

花火もまだだ。

それでも、人の流れそのものが、もう向こう側の時間を運んでいた。

今から始まる何かの入口に、みんな少しだけ浮いた足取りで集まってきている。


わたしは約束の時間より少し早く着いた。

急いだわけではない。

家にいても落ち着かなかっただけだ。

帯を見直して、襟元を直して、鏡の前で立ち止まって、もう一度座って、また立って。

家を出るまでの時間がやけに長かった。


浴衣は毎年着ている。

見慣れた柄で、着付けだってもう覚えている。

だけど今年は、新しいことをした。


髪飾りをつけた。


母から借りたものだった。

黄色の菊の髪飾り。

派手な細工ではないのに、黒い髪の横に置くと、その一箇所だけ空気が変わる。

鏡の中の自分にそれを差したとき、見慣れたはずの顔が、ほんの少しだけ遠くなった。


きっと、いつもの自分とは少し違うところへ行きたかったのだと思う。

浴衣を着ただけでは足りなかった。

帯を締め、袖を整え、それでもまだ何かひとつ、今日のためのしるしがほしかった。

その髪飾りは、飾りというより、境目だった。

家の中のわたしを、祭りの夜のほうへ送り出すための、小さな切符みたいなもの。

それをつけた瞬間に、今日という日が、ただの夏の一日から少しだけ離れた。


そのくせ、駅前に着いてしまうと、急に心許なくなる。

見慣れたはずの浴衣が自分のものではないみたいで、歩くたびに下駄の緒が足の指に食い込む。

慣れているはずなのに、今日はその痛みまで気になる。

足元から順番に、少しずつ落ち着かない。


スマホを出して、時間を見て、またしまう。

浴衣の人たちが前を通り過ぎていく。

袖が擦れる。

笑い声が弾む。

夜はまだ来きっていないのに、駅前だけが先に明るい。

空ではなく、人混みが夜を照らしていた。


ひよりは、まだ来ていないかもしれない。

いや、ひよりのことだから、もう来ていてもおかしくない。


そう思って顔を上げた。


ひよりは、もういた。


駅前の端、街路樹の影が少しだけ落ちるところに、静かに立っていた。

人は多いのに、そのあたりだけ音が薄くなる。

白地に薄い青の模様の浴衣。

色はやわらかいのに、姿の輪郭だけがはっきりと夜へ浮かんでいた。

長い黒髪はいつもより丁寧に整えられていて、首筋に沿って落ちている。

風が触れるたび、髪がわずかに揺れ、その下の白い肌がふっと見える。

夕方の光の名残が頬にかかって、影の中なのにそこだけ明るい。

人混みの中に立っているのに、ひよりのまわりだけ、別の時間が流れているみたいだった。


そのまま、少し見てしまった。

見つけた、というより、目がそこから離れなかった。

立ち止まっているあいだ、下駄の痛みも、人の声も、全部少し遠くなる。

こんなふうに誰かを見つけることがあるのかと、そのとき初めて思った。


ひよりも、わたしに気づいた。

目が合う。

その一瞬だけ、ひよりの肩先がわずかに止まる。

それから、こちらへ歩いてくる。


「……リン」


近づいてきた声は、いつもより低くてやわらかかった。


「早いね」

「リンもです」


それだけで、少し沈黙が落ちる。

駅前はこんなににぎやかなのに、その沈黙だけが輪郭を持っていた。

待ち合わせのいちばんいいところは、こういう時間なのかもしれない。

まだ何も始まっていないのに、会えた、というだけで少し足りてしまう。


ひよりの視線が、わたしの顔の横で止まった。


「珍しいですね」


「なにが」


「それです」


そう言って、ひよりは髪飾りを見る。

ちゃんと見つけてくれた、と思った。


「母から借りたやつ」

「そうなんですか」

「今日くらいは、ちょっと違ってもいいかなって」


ひよりは、すぐには返さなかった。

ただ、その髪飾りを見ていた。

飾りだけを見ているのではなく、それを選んでここに来たわたしまで、ひとつの景色として見ている感じがした。


「それがあるだけで、今日は最初からリンが別の場所に立っているみたいです」

「別の場所?」

「はい。教室でも帰り道でもなくて、ちゃんと今夜のほうにいます」


その言葉が、胸の奥にまっすぐ入った。

鏡の前で少しだけ迷ったこと。

いつもならしないことをしたこと。

少しだけ違う自分になりたかったこと。

そういうものを、ひよりが見つけてくれて嬉しかった。


「……自分では、まだ落ち着かない」

「それでいいと思います」

「そう?」

「はい。落ち着かないくらい、今日のリンがちゃんとここにいるので」


返事が遅れる。

祭りの日の駅前はうるさい。

笑い声も、電車の音も、下駄の響きも、あちこちにある。

なのに、ひよりがこういう短い声で言うと、そのまわりだけ静かになる。


「ひよりも」


やっとそれだけ言う。

その先を言葉にしようとしたら、息が止まりそうだった。


ひよりは、ほんのわずかにうつむいた。

浴衣の袖の中で、指先が小さく動く。


「それだけで、今日はもう十分なくらいです」


その返しで、また胸の奥が騒がしくなる。

ふだんみたいに困らせるための言い方ではない。

ちゃんと受け取って、ちゃんと返してくる声だった。


それ以上は、あまり話さなかった。

話してしまうと、待ち合わせのいちばんやわらかいところがほどけてしまう気がした。


駅前の向こうでは、祭り会場へ向かう人の流れが続いていた。

空の色は少しずつ深くなっていく。

まだ花火も、屋台も、この先にある。

でも、胸のあたりだけが先に夜になっていた。


「行こうか」


ひよりがうなずく。


「はい」


それで十分だった。


ひよりが一歩だけ先に出る。

わたしはその隣に並ぶ。

歩き出した拍子に、浴衣の袖が少しだけ触れた。


下駄の緒がまた足の指に食い込む。

歩きにくい。

それなのに、少しうれしい。

いつもの靴じゃない。

いつものわたしでもない。

髪飾りはまだ耳の横で小さく揺れていて、その小ささのまま、わたしを今日の夜へ押していた。


駅前のざわめきは背中のほうへ流れていく。

前には、灯りの増えていく通りがある。

人の声が、夜の浅いところを満たしている。

世界が今夜だけ少し広く、少し近い。


港祭りが、始まった。


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