第13話 『ありすの家。秘密の約束』
その日の勉強会は、ありすの家だった。
最近のわたしたちは、テストが近いという名目のもとに、順番に人の家へ上がり込んでいる。
最初はただ、放課後の教室でやっていただけだったはずだ。
それが少しずつ場所を変えて、わたしの家に行って、ひよりの家にも行って、今度はありすの部屋に来ている。
勉強会という言葉だけ聞けば、もっとまじめで、もっと乾いたものを想像する。
実際には、お互いの生活の中へ順番に足を踏み入れて、そのたびに知らなかったものをひとつずつ見つけていく会みたいになっていた。
ありすの部屋は、入った瞬間からありすの部屋だとわかる部屋だった。
かわいい。
とにかく、かわいい。
でも、落ち着いたかわいさではない。整ったやさしいかわいさでもない。
もっと前のめりで、もっと遠慮がない。
クッションはふわふわで、ベッドカバーは甘い色をしていて、棚の上には小瓶やぬいぐるみやよくわからない飾りが、きらきらした顔で並んでいる。
ラメの入ったペン立て、鏡の横に集められたヘアピン、机の端に置かれたマスコット、壁に貼られたポスター。
どれもが少しずつ主張していて、それなのになぜかちゃんと一つの部屋になっているのが不思議だった。
見ているだけで目が忙しい。
かわいいというより、少しチカチカする。
「なんか、すごいね」
そう言うと、ありすは得意そうに笑った。
「でしょ? いい感じでしょ」
「いい感じっていうか、強い」
「強い?」
「部屋の圧が」
「部屋に圧ってあるんだ」と、ありすが笑う。
その横で、ひよりが静かに部屋を見回していた。
「これは、だいぶチカチカしています」
「ひよりちゃん、感想が辛辣なんだよなあ」
そう、ありすの部屋は、ありすそのものだった。
にぎやかで、遠慮がなくて、少し落ち着きがなくて、でも見ているうちに、その全部がだんだん自然に思えてくる。
ひよりの家の静けさを思い出したせいで、余計にそう感じるのかもしれない。
あの家は、近づくと少し背筋を伸ばしたくなるような静けさでできていた。
ありすの部屋はその逆で、入った瞬間に「まあ座ってよ」とお菓子を差し出してくる雑さでできている。
世界はちゃんと散らばっている。
机のまわりに三人で座って、ノートと問題集を広げた。
広げるところまでは、毎回ちゃんと勉強会らしい。
問題は、そのあとである。
ありすは開始十分で、すでに消しゴムをいじっていた。
ひよりは国語の問題文を見て、あからさまに性格の合わない相手と向き合っているような顔をしている。
わたしはその真ん中で、どうにか進行役みたいなことをしていた。
「設問者の気持ち。そんなに簡単じゃないですね」
ほんとうに困っている顔だった。
前なら「わかりません」で終わっていたはずなのに、最近はもう少し先まで考える。
わからないものをどうやってわかるようにするか。
そこまで悩みはじめている。
成長なのか、苦しみ方が増えただけなのか、まだよくわからない。
「もう量多すぎるでしょ」と、ありすが頬杖をついたまま言う。
「テスト範囲の教科書を一通り読むだけでテスト日が来ちゃうよ」
「そうやって消しゴムいじってるからだろ」
わたしがそう言うと、ありすは口を尖らせた。
けれど、次の瞬間にはもう別のものに意識を奪われていた。
机の端に置いてあったスマホを見たとたん、その目が急に覚める。
「あ」
その「あ」は、勉強には一ミリも関係のない「あ」だった。
「なに」
「今日だった」
「なにが」
「やばい」
やばい、の種類がありすらしい。
点数がやばいとか、課題がやばいとか、そういう生活寄りのやばさではなく、もっと自分の好きなもの中心のやばさだ。
「楽しみにしてた漫画の新刊、今日発売だった!」
言った瞬間には、もう半分立ち上がっていた。
ついさっきまで世界の終わりみたいな顔で問題集を見ていた人間とは思えない速さだった。
「うわ、忘れてた。絶対今日読みたい」
「今?」
「今」
「勉強会だよね?」
「そうだよ。でも今日の新刊は今日じゃないとだめなの」
「明日でも買えるでしょ」
「明日のわたしじゃなくて、今日のわたしが読みたいの!」
もう完全に行く顔だった。
こういうときのありすは、止めてもたぶん行く。
止めるだけ無駄な勢いというものがある。
「ちょっとコンビニ行ってくる!」
「コンビニに売ってるの?」
「最近はなんでもコンビニなんだよ!」
「ふーん」
「二人で先やってて! すぐ戻るから!」
そう言って、ありすはほんとうに出ていってしまった。
ドアが閉まる。
廊下を走るみたいな足音が遠ざかる。
しばらく、部屋はしんとしていた。
あれだけにぎやかな部屋なのに、音が消えると急に変になる。
クッションも、ぬいぐるみも、鏡の横のヘアピンも、ありすがいない間だけは演技をやめたみたいに静かだった。
さっきまであんなに目にうるさかった色や光まで、急におとなしくなる。
部屋というのは、その持ち主がいなくなると、思っていた以上に素直に空白を見せるらしい。
「……行きましたね」と、ひよりが言った。
「行ったね」
それきり、また少し黙る。
二人きりになるつもりなんてなかった。
でも、そうなってしまうと、それはそれで少し落ち着かない。
ここはわたしの部屋ではないし、ひよりの部屋でもない。
ありすの色で塗りつぶされた部屋の、ありすだけが抜け落ちている。
その借り物の静けさの中に、わたしとひよりだけが残されていた。
ひよりはシャーペンを置いた。
問題集から目を離さないまま、ぽつりと言う。
「それにしても、勉強なんて退屈ですね」
ずいぶん素直なことを言うな、と思った。
「今さらだね」
「今さらですが」
「まあ、そうだけど」
「受験勉強が終わるまで、これが続くんですよね」
「たぶん」
「嫌になります」
その言い方には、ただの愚痴よりもう少し深い疲れがあった。
目の前の一問が面倒だとか、今この瞬間やる気が出ないとか、そういう短い嫌さではない。
もっと長い。
もっと先まで見てしまった疲れ方だった。
終わりがあると知っていても、そこまでの道のりのほうが先に重くのしかかってくる。
そういう嫌さは、少しだけわかる。
ひよりは少し黙ってから、また言った。
「継続できるか不安です」
「珍しく弱音」
「事実ですから」
ひよりは少しだけ口元をゆるめた。
それから問題集を指先でとん、と叩く。
「こういうものを続けるには、ご褒美を用意するのが心理学的によいそうです」
そこに繋がるのか、と思った。
ただ嫌だで終わらせるのではなく、理屈の形にして持ってくるのがひよりらしい。
弱音のまま差し出すのは悔しいのかもしれない。
自分の気持ちにも、なるべく説明書をつけてから渡したいのだろう。
「そうかもね」
「何かあるでしょうか」
「何か」
そう聞き返しながら、わたしは少し考える。
ひよりは欲が薄い。
少なくとも、表面上はそう見える。
服も、甘いものも、流行りのものも、強くねだるタイプじゃない。
ほしいものがないわけではないのだろうけど、あっても大きな声で言わない。
だから、真正面から「ご褒美は何がいいか」と聞かれると、思ったより難しい。
「服を買うとか」
「特に要りません」
「じゃあ、おいしいもの食べるとか」
「……」
そこで、ひよりの手が少しだけ止まった。
何かを思いついたのか、あるいは、何かを思いつきそうになっているのか。
ひよりは、名前をつける直前のものを手のひらで転がしているみたいな顔をすることがある。
「なに」
「いえ」
「食べたいものでもあるの」
「そういうわけではないです」
「じゃあなに」
「……うまく言えません」
そういう答え方をされると、逆に気になる。
でも、ひよりはそれ以上言わなかった。
わたしも、すぐには追わなかった。
そのとき、ふと思い出す。
夏の終わりに毎年やってくる港祭りのことを。
屋台が並ぶ。
花火があがる。
人が多くて、歩くたびに肩がぶつかる。
浴衣の袖が少し邪魔で、帰り道は草履の鼻緒が痛くなる。
特別だと思ったことはない。
子どものころから、なんとなく行くのが当たり前だった。
けれど、思い出した瞬間だけ、その景色は妙にはっきりした。
「港祭り、あるな」
そう言ったとたん、ひよりの顔がわずかに変わった。
「港祭り」
「うん。屋台とか、花火とかあるし」
「……はい」
それだけ返して、ひよりはわたしを見る。
その視線に押されるみたいに、わたしは続けた。
「わたし、毎年浴衣着て行くし」
ひよりの目が、そこで少しだけ静かになった。
「浴衣」
いつもなら、このへんでもっと軽い。
「見たいです」とか、
「連れていってください」とか、
そういう冗談の顔を作って、自分のほうからするりと近くまで来る。
でも今日は言わなかった。
ただ、まっすぐ見ているだけだった。
何も大げさなことを言うつもりはなかった。
ただ祭りに行くかどうか、それだけの話だ。
なのに、そのあとに続く一言だけが妙に重かった。
たぶん、わたしもひよりも、同じように少しだけ怖がっていた。
言ってしまえば、ただの約束になる。
でも、言う前とあとでは、少しだけ何かが変わる。
「……テスト終わったらさ」
ひよりは何も言わない。
でも、目だけで続きを待っていた。
「一緒に行く?」
「……はい」
わたしは少し息を止めた。
ひよりのことだ。断るわけはない。
だけど、返事を聞いて、私は胸を撫で下ろしてる。
ひよりは小さく息を吐いた。
それから、ほんとうに少しだけやわらかい顔で言った。
「ご褒美ができました」
「そうだね。まだ終わってないけど」
「だから頑張れます」
その言い方は、冗談みたいでもあり、本気みたいでもあった。
でも、冗談だけではないことはわかった。
さっきまでひよりは、終わるまで続く長さのほうに疲れていた。
今は、その先に小さくても形のあるものがひとつ置かれた。
それだけで、同じ問題集でも少し違って見えるのだろう。
わたしもノートに視線を戻した。
国語の問題は相変わらずそこにある。
傍線部の理由も、作者の意図も、急に親切にはならない。
でも、さっきまでより少しだけ先ができた気がした。
テストが終わったあと。
港祭り。
屋台。
花火。
浴衣。
そして、ひより。
そんなことを考えている時点で、もう今日はたぶん勉強に負けている。
「ひより」
「何でしょう」
「ちゃんと勉強しなよ」
「リンもです」
「うるさいな」
そう言うと、ひよりはほんの少しだけ笑った。
ありすがいるときの笑い方とは違う。
もっと小さくて、声にならないぶんだけ静かな笑い方だった。
二人きりのときにしか出ない顔というのは、こういうものなのかもしれない。
派手ではない。
わかりやすくもない。
でも、一度見てしまうと、あとに残る。
そのとき、廊下の向こうから足音が近づいてきた。
ばたばたしていて、迷いがなくて、いかにもありすだった。
「ただいまー!」
ドアが開く。
レジ袋を提げたありすが、満足そうな顔で戻ってきた。
「買えた?」
「買えた! しかも特典つき!」
「よかったね」
「うん! もう今日の半分くらい終わった感じする!」
「まだ勉強会終わってないけど」
「そこは気持ちの話!」
ありすは机の上に、ついでみたいにお菓子とアイスまで並べはじめた。
新刊の漫画も、いちばん目立つところに置く。
部屋は一瞬で、また元のにぎやかさを取り戻した。
さっきまでここに別の空気があったとは思えないくらい、簡単に。
「え、なにこの空気」と、ありすが言う。
「ちゃんと勉強してたの?」
「してたよ」
「えらい!」
「ありすがいないほうが進むな」
「ひどっ!」
ありすは本気で抗議していた。
ひよりは何も言わなかった。
ただ、一瞬だけこっちを見た。
ほんの一瞬だけ。
でも、それで十分だった。
港祭りの約束は、ありすには言わなかった。
隠すつもりだったわけじゃない。
でも、言った瞬間に、何か別のものになる気がした。
あの約束は、ありすのいない数分の静けさの中でできた。
ありすの部屋なのに、ありすがいなくて、ひよりとわたしだけが残されていた時間の中で。
チカチカした部屋の真ん中に、そこだけひどく静かな場所があって、その静けさの中で交わした言葉だった。
だからたぶん、その空気ごと二人のものだった。
秘密なんて、大げさなものではない。
誰にも言えないほど深刻な話でもない。
祭りに行く。
ただそれだけだ。
それだけなのに、なんとなく言えなかった。
言わないままにしておきたかった。
二人だけのあいだでできた約束を、そのまま二人だけのものにしておきたかった。
勉強会は何事もなかったみたいに続いた。
ありすはコンビニスイーツを机に広げて、新刊の表紙を何度も見てはにやけている。
ひよりはまたシャーペンを持ち、わたしは問題集を開く。
ページをめくる音、ペン先が紙を擦る音、ありすのときどき混じる独り言。
部屋の中にはちゃんと三人分の気配がある。
でも、二人分の静かなものは確かに残っていた。
誰にも聞かれていないのに、妙に忘れられない約束がある。
誰にも見えないまま、二人のあいだだけで、少しずつ本物になっていくものがある。
たぶん、そういうのは秘密というより、もっとやわらかい。
名前をつけるにはまだ早いけれど、しまっておきたくなるものだ。
ありすの部屋での勉強会は、そのあとも普通に続いた。
普通に問題を解いて、普通に脱線して、普通にお菓子を食べた。
三人で笑って、三人で机を囲んで、それなりに勉強した。
それでも、あの日の中心はたぶんそこではなかった。
ありすのいないほんの短い時間に、ひよりとわたしのあいだだけに落ちた静けさ。
その静けさの中で、たしかに交わされた約束。
それは、何度でも思い出せるのに、うまく人には話せない。
つづく。




