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【百合がだだ漏れの観測記録】クラスメイトがわたしのことを好き過ぎて大変なことになった。  作者: 丹波謙虎


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第12話 『ひよりの家』


その日の勉強会は、ひよりの家ですることになった。


駅から少し離れた住宅街の奥に、その家はあった。門扉は古びているのに、手入れが行き届いていた。生垣はきれいに刈り込まれ、石畳には落ち葉ひとつ落ちていない。新しさや派手さで見せる家ではなく、長い時間をかけて静かに整えられてきた家、という印象だった。暮らしている人間の癖や気配まで、きちんと折り畳まれているように見えた。


「……でかくない?」と、ありすが門の前で立ち止まった。

「ちょっとね」と答えると、ひよりは不思議そうに首をかしげた。

「そうでしょうか」

「その返しがもう育ちいいんだよ」と、ありすが言う。


玄関に入ると、空気が一段静かになった。外の音が薄い膜の向こうへ退いていく。廊下は磨かれた木の匂いがして、どこにも急いだ生活の乱れがない。壁に掛けられた絵も、花も、置時計も、どれも過不足なく、そこにあるべき場所に置かれていた。落ち着くというより、こちらまで少し姿勢を正したくなるような空間だった。


「うわ、廊下長い」と、ありすがまた小さく騒ぐ。

「ほんとだ」と言うと、ひよりが先に立ちながら振り返った。

「迷わないでくださいね」

「迷う前提!?」と、ありすが抗議する。


通された部屋もまた、ひよりらしかった。広すぎるわけではない。けれど、机も本棚もベッドも、そこにあるものがどれも静かに整っていた。薄い色のカーテンが夕方の光をやわらかく透かし、棚には文庫本と写真立てと、小さなガラス細工が、まるで最初からそこにある景色の一部みたいに並んでいる。


「……ひよりっぽい」と、思わず言った。

ひよりは少しだけ目を細めた。

「そうですか」

「うん。なんか、ちゃんとしてる」

その言い方に、ありすがすぐ笑う。

「りんちゃんの『ちゃんとしてる』には、いろんな感情入ってるね」

「うるさいな」


家が立派だとか、育ちがいいとか、そういうこと自体にはあまり驚かなかった。広いな、静かだな、とは思ったけれど、それは風景として受け取れた。

ただ、その家の中にいるひよりのほうは、いつもより少し遠く見えた。


部屋に入って少しして、控えめなノックがあった。


「ひより、お友達?」


ドアの向こうから顔をのぞかせた人は、きれいな人だった。声はやわらかいのに、輪郭は不思議と曖昧にならない。姿勢も、言葉の置き方も、この家と同じように静かで整っていた。


「はい。勉強会です」と、ひよりが答える。

「そう。ゆっくりしていってね」

「ありがとうございます」


その一言に、わたしは少しだけ引っかかった。丁寧すぎる、というほどではない。けれど、お母さんに向けるには、どこか一枚薄いものを隔てた響きがあった。


その人は一度部屋を出て、しばらくしてまた戻ってきた。今度はお茶と菓子を乗せたトレーを持っていた。


「お待たせ。お菓子も置いておくわね」

「ありがとうございます」と、ひよりはまた言った。

「足りなかったら言ってね」

「はい」


トレーが机に置かれる。湯気の立つ茶碗と、小ぶりできれいな焼き菓子。その何気ない所作まで、見ているこちらが妙に緊張するほど整っていた。


ドアが閉まると、ありすがすぐにひよりを見た。


「……ひよりちゃんって、お母さんにも敬語なんだ」


ひよりはお茶を一口飲んでから、あっさり答えた。


「本当のお母さんではないので」


わたしとありすは、少し遅れて固まった。


「え」と、ありすが言う。

わたしも、ほとんど同じ間で「……え」と返していた。

ひよりはその反応を特におもしろがりもせず、ただ続けた。

「父の再婚相手です」


それは、驚くほどさらっとした言い方だった。わざわざ伏せるでもなく、気負うでもなく、ただ天気の話でもするみたいに事実だけを置く。その平坦さのほうが、かえって耳に残った。


ありすは、その場でやめればよかったのに、勢いでさらに聞いてしまった。


「じゃ、本当のお母さんは?」


思わずありすを見た。でも、ひよりは表情を変えなかった。


「病気で。わたしが六歳のときに亡くなりました」


その瞬間だけ、ありすが言葉をなくした。

「……あ」

それきり口を閉じてしまったありすの横で、ひよりは変わらずお茶をもう一口飲んだ。


「ご、ごめん」と、ありすがようやく言う。

「なぜですか」

「いや、そんなつもりで聞いたんじゃ」

「昔のことですので、大丈夫です」


昔のこと。

そう言うには、ひよりの声は静かすぎた。


ありすは気まずさをごまかすように、また別の話題へ逃げた。

「じゃあ、お父さんは……?」

「ありす」と、わたしは小さく止めたけれど、ありすは肩をすくめる。

「いや、ごめん、でもちょっと気になって」

ひよりはそのへんも、やはり同じ温度で答えた。

「父は医者です。外科医で、大学病院に勤めています。ほとんど家にはいません」


母のことも、父のことも、家の広さも、全部同じ温度で話す。その平坦さは、冷たさというより、ずっと前からそこにあるものを、もういちいち痛がらないで済むように整えてきた人の声に聞こえた。


そのとき、わたしは少しだけわかった気がした。

ひよりは、誰に対しても少し距離があるのかもしれない。友達にも。家族にも。たぶん、世界そのものにも。


近づきすぎない。

踏み込みすぎない。

ちゃんと笑って、ちゃんと話すのに、どこかだけ静かに離れている。


そう思うと、昼休みにわたしの机まで来るひよりとか、帰り道にどうでもいいことを話し続けるひよりとか、資料室で膝枕してあげますなんて言うひよりが、急に少しだけ特別に思えた。あれは、誰にでも向ける顔じゃないのかもしれない。


「りんちゃん、どうしたの」と、ありすが不思議そうに言う。

「……いや」

ひよりもこっちを見た。

「何でしょう」

少し迷ってから、わたしは言った。

「ひよりって、意外と壁あるんだなって思っただけ」


ひよりは少しだけ黙った。

それから、いつもの顔で首をかしげる。


「今さらですね」

「認めるんだ」と、ありすが言う。

「全部の人に、同じようにはできませんので」

「……そっか」


その返事は、妙に素直だった。言い訳でも、寂しさのにおいでもなく、ただ事実をそのまま渡された感じがした。

たぶん、ひよりにとって距離を置くことは、冷たさじゃない。呼吸みたいなものなんだろう。


だったら、わたしは。

ひよりがたまに近くまで来るたびに、思っていたよりずっと大事なものを受け取っていたのかもしれない。


机の上には、参考書とノートと、ありすの壊滅的な小テストが広がっていた。ありすはすでに「やばい」を連呼している。ひよりは普通の顔で参考書を開いた。部屋の静けさは変わらない。でも、わたしだけが少し落ち着かなかった。


ひよりの家が立派だったからじゃない。

ひよりが、思っていたよりずっと遠いところから、わたしたちのいる場所まで来ていたのかもしれない。

そのことに、今さら気づいたからだった。


勉強会が終わって、外に出る。

夕方の空気は少し冷えていて、さっきまでいた静かな家の匂いが、まだ少しだけ服に残っている気がした。


「……なんかすごかったね」と、ありすが言う。

「うん」

「家もすごかったけど」

「うん」

「それより、ひよりちゃんが」

「……うん」


少し間があく。ありすも珍しく、すぐには次の言葉が出てこない。


「わたしさ」

「なに」

「お母さんのこと、聞きすぎた」

「まあ」

「いや、かなり聞いた」

「かなりね」

「うわ、そこでひよりちゃんみたいな返ししないで」


少しだけ笑った。でも、ありすの気まずさもわかる気がした。


「あの子、ああいうの、あんなふうに言うんだね」

「さらっとね」

「そう。さらっと。逆に、びっくりした」


わたしも同じことを思っていた。驚かせようとか、隠そうとか、そういう間がひとつもなかった。最初からそこにある事実を、そのまま置かれたみたいだった。


「なんかさ」と、ありすがまた言う。

「うん」

「ひよりちゃんって、思ってたよりちゃんと距離あるんだね」

「……うん」


その言い方が、妙にしっくりきた。


友達だから近い、とか。

家族だから近い、とか。

そういう当たり前が、ひよりの中には少し薄いのかもしれない。ちゃんと笑うし、ちゃんと話す。けれど、どこかだけ静かに離れている。


「わたし、今までさ」

「うん」

「ひよりちゃんって、りんちゃんには距離バグってる変な子、って感じだった」

「ひどいな」

「いや、でもそうじゃん」

「まあ」

「でも今日、あれって、りんちゃんだけなんだなって思った」


その言葉に、わたしは少しだけ黙った。


「家の中であんな感じならさ」と、ありすは続ける。

「学校でのひよりちゃんのリンに対する態度ってかなり特別じゃない?」


返事はしなかった。

でも、ありすの言うことは、たぶん当たっていた。


ひよりにとって、近づくことは簡単なことじゃないのかもしれない。誰にでもできることじゃないのかもしれない。そう思うと、今までのいろんな場面が、少しだけ違って見えた。


「りんちゃん」

「なに」

「大事にされてるね」


その言葉は、思っていたよりまっすぐ胸に入ってきた。


「……わかんないよ」

「わかるよ」

「そんな簡単に言うなよ」

「簡単じゃないって。だって、ひよりちゃん、世界に対してちょっと距離あるじゃん」

「うん」

「その子が、りんちゃんには自分から行ってるんだよ」


夕方の道を歩きながら、わたしは少しだけ前を見た。車も人も、いつも通り通っている。でも、頭の中だけが少し静かじゃなかった。


「今日ので、ちょっと納得した」と、ありすが言う。

「何を」

「ひよりちゃんが、りんちゃんに重い理由」


ため息をついた。

でも、否定しきれないのが少し悔しかった。


少し歩いてから、ありすが今度は静かな声で言った。


「ひよりちゃんって、思ってたよりちゃんとさみしい子なのかもね」


その言い方に、また少しだけ黙る。


さみしい。

そうかもしれない。

でも、たぶんそれだけじゃない。

ひよりの中には、もっと最初から、そういう距離の取り方しか知らないような静けさがある。

そしてその静けさの外まで、わたしは少しずつ呼ばれていたのかもしれない。


「りんちゃん」と、ありすがまた呼ぶ。

「なに」

「ひよりちゃんのこと、前より難しくなったでしょ」

「……少し」


ありすはそこで少しだけ笑った。茶化す笑いじゃなくて、何かを見つけたあとの静かな笑いだった。


「でも、前より本物かもね」

「何が」

「りんちゃんの気持ち」


それには答えなかった。

まだ答えられなかった。

でも、今日は少しだけ、ひよりがわからなくなったぶん、前より近くなった気もしていた。



つづく。

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