第9話:厨番のギゼラ
その朝、厨に入ると、先客がいた。
小さな老女が、竈の前にしゃがんでいた。杖を壁に立てかけて、灰を掻き出している。振り返って、わたくしを上から下まで見た。
「あんたかい。館に来たっていう」
「ミリアムと申します」
「ギゼラだよ」
その人は立ち上がった。杖を取るのに手間取っていたけれど、手は貸さなかった。貸されたら怒る顔をしていたからだ。
「足が治ったんでね、戻ってきた」
「それは、ようございました」
「よかないよ。二月も他人の家で寝てたんだ」
ギゼラさんは、棚のほうへ杖をついていった。塩の壺の位置を見て、匙の並びを見て、鍋の柄を見た。
「これ、あんたが動かしたね」
「はい。使いやすいように」
「四十年、そこにあったんだよ」
「……申し訳ございません。戻します」
「もういい」
「戻します」
「もういいって言ってるだろう。目をつぶってても届くところに置いてあったのが、動いたってだけの話さ」
それは、戻さなくていいという意味には聞こえなかった。わたくしは塩の壺を元の位置に戻した。ギゼラさんは見ていなかった。見ていないふりをしていた。
それきり黙って、豆の袋を開けはじめた。わたくしは自分の鍋を出そうとした。ニルスさまの粥の時間だ。
「そっちの竈は使わないでおくれ」
背中を向けたまま言われた。
「今朝は豆を炊く。竈はひとつしかない」
「では、どちらを先に」
「決まってるだろう」
わたくしは、しばらく立っていた。この方の朝の粥は、時間がずれると量が減る。八十九頁に書いてある。時刻がずれた日は、ふたくちがひとくちになる。三度そうなったから、書いてある。
「ギゼラさん」
「なんだい」
「先に使わせていただけませんか。四半刻でお返しします」
「豆は四半刻じゃ炊けない」
「わたくしの鍋は小そうございます。端でよろしいのです」
「余所の作法は、余所でおやりなさい」
その人は振り返らずに言った。
「ここの厨は、四十年あたしのやり方でやってる。あんたが来たからって、明日から変えるものじゃない」
わたくしは、鍋を持ったまま頭を下げた。
「では、外の焚き口をお借りします」
「……はあ?」
「洗濯場の横に、火を熾せるところがございました。あそこで炊いてまいります」
「あんた、冬の外で粥を炊くのかい」
「はい」
ギゼラさんは、初めてまともにこちらを向いた。
「なんでそこまでするんだい」
同じことを、三日前にも訊かれた。あのときは答えられなかった。今度も答えられなかったけれど、代わりに、別のことを言った。
「あの方は、時間が遅れると召し上がりません」
「腹が減ってりゃ食うよ、子どもは」
「召し上がりません」
「……」
「三年、そうでした」
わたくしは外へ出た。
洗濯場の横の焚き口は、風が強かった。
火はなかなかつかなかった。薪が湿っていたのだと思う。三度目にようやくついて、ついてからも風で煽られた。強くなったり弱くなったりする火では、粥の炊き加減が定まらない。わたくしは板を一枚持ってきて、風上に立てた。板を押さえながら、片手で鍋を見た。
途中で、指を火傷した。大したことはない。ただ、鍋の柄を持ち替えたときに、少し湯がこぼれた。こぼれたぶんだけ、濃くなる。湯を足して、また煮た。
鍋の底は煤だらけになった。粥は、いつもより十五分ほど遅れて炊き上がった。
部屋へ持っていくと、ニルスさまはもう起きて、卓の前に座っていた。
「遅くなりました」
匙を渡すと、両手で取った。掬って、こちらを見る。頷く。
ひとくち。二くち目は、来なかった。
わたくしは何も言わずに、帳面に書いた。
半刻遅れ。ひとくち。
昼過ぎに、厨へ鍋を返しに行った。ギゼラさんは椅子に座って、豆の選り分けをしていた。
「置いときな」
「はい」
「……朝の、どうだった」
「ひとくちでした」
「ゆうべは」
「ふたくちです」
ギゼラさんは、選り分けの手を止めなかった。
「あんた、鍋を煤だらけにしただろう」
「はい。申し訳ございません」
「洗ってから返しな」
「洗ってまいりました」
「そうかい」
わたくしは戸口へ向かった。
「おい」
呼び止められた。
「残ってるだろう。粥」
「少しだけ」
「出しな」
わたくしは小鉢に取り分けて出した。ギゼラさんは匙で掬って、口に入れた。
噛む必要のないものだ。すぐ飲み込んだ。それから、鉢の中を見た。
「……薄いね」
「はい」
「塩は」
「入れておりません」
「肉の出汁も、菜の甘みも入ってない。乳だけかい」
「乳だけです」
「こんなもんで、腹は膨れないよ」
「膨れません」
わたくしは、そこは正直に言った。
「ですから、量ではなく回数を増やしたいのです。いまは一日に三度、ひとくちずつでございます」
「三度」
「はい」
「三度も炊くのかい、あれを」
「はい」
ギゼラさんは、匙を鉢に戻した。それきり、何も言わなかった。
その日の夕方、ニルスさまが部屋にいなかった。
厨にもいない。広間にもいない。中庭を探して、それから、洗濯場の横まで行った。焚き口の前に、しゃがんでいた。
「ニルスさま」
振り返らない。わたくしは横にしゃがんだ。石が冷たかった。
「お寒うございませんか」
その方は、焚き口の灰を見ていた。朝わたくしが使った、消し残りの灰だ。
「……ぼくのせいで」
小さな声だった。
「ぼくのせいで、外なんですか」
わたくしは、返事をするまでに少しかかった。
「ちがいます」
「……」
「厨をお借りできなかっただけでございます。ニルスさまのせいではございません」
その方は、まだ灰を見ていた。
あの家でも、この方は同じことを考えていたのだと思う。皿が下げられるのも、義母の目が光るのも、わたくしが叱られるのも、全部自分のせいだと。三年のあいだ一度も口に出さなかったのは、口に出すともっと悪くなると思っていたからだ。
わたくしは、この方の前にしゃがんだまま、少し考えた。嘘をつくのは簡単だった。けれど、この方は嘘に慣れている。
「ニルスさま。わたくしは、外で炊くのが下手でございました」
「……」
「火が強すぎて、鍋を焦がしました。次はもっと上手にいたします」
「……つぎも、そとですか」
「わかりません」
その方は、そこで初めてこちらを見た。
「ですが、どこで炊いても、ニルスさまのところへ持ってまいります。それは変わりません」
しばらくして、頷いた。手を出すと、握った。今度は両手だった。
中庭を戻るとき、門のほうが騒がしかった。
門番が誰かと話している。その向こうに、馬車が停まっていた。黒い箱馬車で、扉に紋が入っている。
わたくしは、その紋を知っていた。
お読みくださって、ありがとうございます。
四十年守ってきたものを、来て十日の相手に明け渡す人は、あまりいません。ギゼラばあさんが特別に頑固なのではなく、たぶんそれが普通です。
門に停まった黒い箱馬車。扉の紋には、見覚えがありました。
【その日の献立】 麦の粥、半刻遅れ。—— ひとくち。




